2010映画の社会学第4講 メディア論的方法(3) [映画の社会学]
今回の題材はポケモンです。
1998年公開の記念すべき第1作目。「ミューツーの逆襲」です。
私の講義を始めて受講する学生さんはアニメで何の分析ができるのか、ということに疑問を持たれたかもしれません。種明かしはまた来週。
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2010映画の社会学第3講 メディア論的方法(2) [映画の社会学]
演劇と映画
題材:
上田誠(ヨーロッパ企画)原作・脚本
『曲がれ! スプーン』
舞台:2000年初演
映画:2009年公開
<観客から観る演劇の特徴>
観客の立場から演劇の特徴を考えると、次のような点が上げられます。
臨場感(現場性、一回性、相互性)
共有感
共振性
それぞれの特徴を詳しく考えましょう。
【臨場感-現場性】
演劇では観客の目の前で物語(事件)が進行します。それは誰かに聞いたことでもなければ、過去に生じたことを映像でみるというものでもありません。観客は演技者の声、動き、音、においなどを生で感じることができます。他の演劇作品、特に子どもを対象にした演劇でよく利用される演出方法がこの作品でも利用されていました。演技者が観客席で演技をするという演出です。
演劇では観客は現場にいて、参加しているような感覚で作品に接触することになります。こうした演出は歌舞伎でも使われる方法で、歌舞伎では舞台自体が現場性を演出できるように作られています。
【臨場感 一回性】
歴史の中で生じた事件は1回だけの出来事であって、全く同じ事件は二度と生じません。演劇の公演は同じ場所で何度も繰り返し行われます。もちろんよほどのことがない限り、脚本や演出が変わることはありません。しかし実際に行われる舞台は、出演者の体調、本番中の突発的な出来事、あるいは天候などの要因によって毎回変化しています。歴史上の事件と同じように、その時の舞台は1回だけの出来事なのです。舞台には再現性はありません。
同じ舞台は二度とない、という状況は出演者に大きな緊張感を与えることになります。そしてそのことが舞台をより生き生きとしています。
【臨場感 相互性】
舞台の上で物語を作るのは出演者たちです。しかし演技の良さ、出演者たちの感情の高まりなどの要素は出演者同士だけで影響し合うわけではありません。演技に対する観客の反応、例えば声にならない声、拍手、笑い、ため息、あるいは緊張感などによっても出演者の演技は変化します。実際に演劇のゲネプロと本番との間には大きな相違がみられます。同じように演技しているのですが、観客がいるのといないのとでは、演技の出来に差がみられるのです。舞台は出演者と観客との相互作用によって作られます。観客にその劇団のファンが多ければ、そうでない舞台よりも多くの反応があります。
観客が反応しなければ演技者はきちんと演技できない場合があります。お笑いでは観客が笑わないと、ネタを先に進めることができません。
【共有感】
次に共有感についてです。
演劇をご覧になればおわかりのように、演劇の舞台には独特な作りがあり、そこには様々なルールやお約束があります。演劇をよく観に行く人は、そうしたルールを知っていて、出演者と共有し、時には出演者を助けます。例えば、拍手のタイミングがずれると演技しづらくなりますし、「うける」場面で受けないと、出演者はショックを受けます。出演者が登場する場所を知らないと、どこを観ていいか分かりません。地方の劇場などで行われる舞台では、舞台の途中でかけ声がかかったり、花束を渡したりもします。出演者と同じ場所に観客がいる場合、まさに観客はその時その場の舞台の雰囲気をつくる要因になります。この雰囲気が臨場感にも影響します。
演劇の世界は長い間演劇慣れした観客だけを相手にしてきましたが、それでは商業的に成り立ちません。そこで最近の演劇では素人でもわかるような工夫が行われています。
【共振性】
最後に共振性です。
演劇を観ていて、その気もないのに、まわりの観客につられて笑ったり泣いたりした経験はありませんか。演劇の舞台では観客同士で感情が共振することがあります。この感情の共振はその場の雰囲気を構成する重要な要素です。
演劇のDVDはほとんど作られません。販売数も少なく、もちろんレンタルされる作品は多くはありません。その理由はここで説明した「観客からみる演劇の特徴」から理解できます。
映画は演劇の代わりの娯楽として登場し、それらを駆逐していきました。そして1960前後に映画は大衆娯楽として全盛期になっています。それでは映画は観客から観た演劇の特徴をメディアとしてどのように継承したのでしょうか。
「観客から観る演劇の特徴」は「臨場感」、「共有感」、「共振性」の3つです。これらの特徴を最後の項目から見ていきます。
<共振性>
「共振性」については、演劇と同様、映画館で上映される映画は観客同士に共振性が存在します。ホラー映画のように映画を見ながら感じる恐怖は観客席で伝染します。最初はあまり怖くなかった人も、他の人が感じた恐怖が伝えられ、いつのまに怖れを感じるようになるのです。コメディ映画についても同様です。
この共振の要素は、映画興行という側面から見て重要です。映画を観て感動した観客は、何度も繰り返して鑑賞したいと考えるでしょうし、その感動を他の人に伝えたくなります。こうして口コミで観客が増える可能性があります。観客の感動は作品のできによって個々人に生じることです。しかしながら共振性という要素は、感動をより大きくする可能性があり、またあまり感動しない観客の感情を揺さぶることもあります。こうして共振性は映画興行(売上)にも影響を与えるのです。
<共有感>
映画では観客と出演者が直接接触する機会はほとんどないため、両者の間に共有感はありません。しかしながら映画を観た観客が出演者に対して何かを共有しているという感覚を持つことはあります。さらに出演者の行動を模倣することによって、共感することもあるでしょう。
<臨場感ー相互性>
「臨場感」についてですが、演劇の特徴として定義した臨場感は映画にはありません。特に話しかけようが、笑おうが、あるいは泣こうが何の反応も返ってこない映画には、観客と演技者との間に、相互性という特徴はありません。ドラえもんのようなアニメならなおさら相互性など生じる可能性はないことを観客も知っています。
<臨場感ー一回性>
映画はフィルムを映写しているだけなので、何回観ても変わりません。まったく同じ演技や内容が繰り返されます。そういう意味では、「一回性」という特徴はありません。一般的に観客は同じ場面で感動することが多いのですが、鑑賞する時の心情によって感動する場面が変化することがあります。「一回性」や「相互性」はありませんが、観客からみれば、自分自身だけに語りかけているような印象をもちます。この時、映画が自分に反応したような感情や、鑑賞するたびに異なるというイメージをもつのです。
<臨場感ー現場性>
映画は舞台のように目の前で物語が進行するわけではないので、「現場性」はありません。しかし映画は演劇のように特定の舞台(ステージ)という限定を受けません。そのため映画は演劇とは異なった別の臨場感、「リアリティ」と呼べるような印象を観客に呼び起こすことができます。
映画はスタッフとカメラがあればどこでも撮影できます。そのためセットや室内だけでなく、屋外のどこもが「舞台」になります。いわゆるロケーション撮影です。
映画は演劇のように舞台という場所に限定されないで、私たちが生活している「現場」を舞台にして撮影することができます。こうして映画は演劇とは異なったリアリティを演出しました。
舞台版では舞台の場所をあちらこちらに移動して表現することはできません。しかし映画ではロケによってあちらこちらを舞台として利用しました。
こうして映画は映画独自のリアリティを創造しました。ただし残念ながら費用面、撮影の効率化の側面からロケーション撮影が少なくなっています。日本映画『ALWAYS 3丁目の夕日』(山崎貴監督)は大部分のシーンがオープンセットで撮影され、ロケはほとんど行われていません。将来、こうした撮影方法が主流になるのかもしれません。おそらくCG技術は今後も進化し続けるでしょう。そうなればわざわざロケをしなくても、映画が撮影できるので、ロケをしなくなるでしょう。
アニメで表現可能な世界は、実写でも可能になりました。
→アニメとして制作する意味、フルCGとして表現する意味が必要になります。
たとえば、映画版『ファイナルファンタジー』
このように観客という視点から見た場合、映画は演劇の特徴を「共振性」以外は継承していないことになります。確かに映画は演劇に代わる娯楽として定着したのですが、メディアとしてはまったく異なるからです。
<演劇とは異なる観客へのアプローチ>
これまでは演劇と映画の共通点を見つける作業を行ってきました。ここでは演劇ととは異なる点について議論します。演劇とは異なり、映画では観客に注目させたい部分を正確に見せることができます。見せたい部分をスクリーンに映し出すからです。演劇ではときおり、どこを見たらいいかわからない場合があります。これは演劇に慣れた人にしかわからない点かもしれません。
そのため、画面の構成が重要なのです(これをフレームといいます)。そのため映画制作者の監督は「絵コンテ」と呼ばれるものを描き、フレームの構成を明確にします。
<演劇とは異なるメディアとしての映画の特徴>
演劇とは異なり、演技者の体力に関係なく、何度でも同じ作品が上映できます。機材されあればどこでも上映できるという大きな特徴もあります。そして何より、演技者の年齢、天候、時代などの変化に左右されません。観客はいくつになっても同じ作品を鑑賞することが可能です。
2010映画の社会学第2講 メディア論的方法(1) [映画の社会学]
映画の歴史
演劇と映画
それでは最初のトピック、メディア論的方法から始めたいと思います。メディア論的方法のおおざっぱな内容については第1回目の講義で説明したので、そちらを参考にしてください。
映画の原点である原理は、1824年 イギリスのピーター・ロジェが発表した論文にあります。『うごくものの視覚的残像』という論文です。これは端的に言えば残像の原理です。人間の目は実際に見ているものよりも少し長い時間、その像を捉えています。そのため次々と別の像が現れているにもかかわらず、その新しい像を連続した像としてとらえます。こうして映画の歴史が幕開けすることになりました。
端的に言えば映画の原理はばらばらマンガの原理です。もう少し別の表現をすれば映画の原点はアニメーションにあります。
残像を利用した動画には当初、絵が用いられていましたが、写真技術の発展とともに絵の代わりに写真が用いられるようになり、それらを円筒の内側に貼り付けて回して見るという、ゾエトロープやブラキシノスコープが発明されました。
こうした写真技術の発展と同時に、写真を投影するという技術も発展していきます。さらに写真や投影に関わる様々な材質の開発がありました。こうして静止画を記録し、記録されたものを投影するという技術が発展することによって映画発明の下地が完成しました。
そして1895年フランスのリュミエール兄妹がシネマトグラフを発明し、発表しました。これが最初の映画です。これが全世界に広がっていきます。日本では1897年シネマトグラフが輸入公開されてました。シネマトグラフの発明からわずか2年で日本に映画が登場したのです。そして1899年には日本人による作品の制作・公開されます。
さてそもそも映画を英語では、motion pictureといいます。その他、アメリカではmovie , moving picture , film、イギリスではcinemaとも呼びます。motion pictureは、動きのあるうつされた写真という意味にとれます。ちなみに日本では、映画導入当時は「活動写真」と呼ばれていたが、次第に「映画」と呼ばれるようになる。動作やしぐさが描かれた写真というよりも、映し出された写真というイメージの方が強かったのでしょう。ここには文化的な相違が見られます。
motion pictureと呼ばれるのは、その発明過程に理由があります。前述のように映画は基本的にぱらぱらマンガやアニメーションと同じ原理で作られます。この仕組みがmotion pictureと呼ばれる理由です。
このぱらぱら漫画の原理を利用した動画は誰でも簡単に作成することができます。ビデオなど必要ありません。デジカメで1枚1枚写真を撮っていくことで動画に変換することができるのです。
。映画草創期においては、映画は無声映画であり、放映と同時に弁士が話をしたり、オーケストラが音楽を演奏したりした。その後、1926年にワーナー・ブラザーズがフィルムの放映にあわせて、あらかじめ録音してあったディスクを再生するという、トーキー映画が開始され、1931年にサウンドトラックのついたフィルムが発明され、ついにほぼ現在の映画と同じ作品が作られるようになります。ただしこの時期に撮影された作品は黒白作品です。
1935年に本格的なカラー映画が製作されるようになり、1950年に普及、以後、作品として何らかの意味がない限り、カラー作品が製作されるようになります。
日本に映画が導入されるのは、リュミエール兄弟がシネマトグラフを発明した時期とほとんど同じで、1987年です。今年は日本で映画が公開されてから110年こえました。当時は活動弁士と呼ばれる人が、リズム感あふれる口調で映像にあわせて話をしていました。1899年には日本人によって日本映画が作られます。その後、着実に日本映画は産業として成長していくことになりました。
映画が発明された後、映画はどのような場所で上映されたのでしょうか? もちろん発明当初、映画を専用に上映する場所、映画館はありません。そこで最初のうち、映画は劇場や見せ物小屋などで上映されました。映画館を英語ではmovie theaterというのはその名残でしょう。日本では歌舞伎が上演されている劇場でも公開されました。そして何かの都合で歌舞伎が上演できなくなったときのために、あらかじめ歌舞伎を撮影し、それを上映したそうです。
こうして映画が登場して普及するに従って、演劇が映画に駆逐されるようになります。演劇と映画を比較するといくつかの相違点が指摘できます。
・入場料委金の違い
・鑑賞機会の違い
・内容の親しみやすさ
そして映画は演劇に代わる娯楽としての地位を確立していきます。1910年以降、映画専用の建物「映画館」が都市部を中心にして建築されるようになり、歌舞伎などの演劇よりも安価に映画が上映されます。こうして日本映画は娯楽としての地位を確立することになりました。
日本映画が産業として絶頂期を迎えるのは、石原裕次郎が日活映画に出演した1958年頃です。この年の年間映画人口は約11億2000万人で映画館数は約7000館に上ります。製作された日本映画は504本、公開された海外映画は171本でした。しかしこれをピークに日本における映画産業は斜陽の時期に入り、1975年の年間映画人口は約1億7000万人、映画館数は2500館となります。製作された日本映画は356本、公開された海外映画は245本となり、この後、日本で公開される海外映画が日本映画を上回るようになりました。そしてついに1994年、年間映画人口は1億2000万人、映画館数は1700館まで減少する。製作された日本映画は251本、公開された海外映画は302本です。つまり映画産業は海外からの輸入作品に依存しています。
しかしこの後、映画の興行収入は1996年を底に上昇をはじめます。興行収入、映画館数ともに増加し、2004年には過去最高の興行収入を記録します。この背景にはシネマコンプレック形式の映画館の増加、映画製作方式の変換などがあります。
このように映画は演劇に変わる娯楽として登場し、庶民の娯楽として定着しました。それでは映画は演劇と比較してメディアとしてどのような特徴があるのでしょう。今回は比較のための題材として
上田誠(ヨーロッパ企画)原作・脚本
『曲がれ! スプーン』
をとりあげます。
演劇に慣れておられない人も多いと思います。まずは映画版から。
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2010映画の社会学第1講 イントロダクション [映画の社会学]
授業内容の説明、方法論の紹介
映画の社会学とは?
さていよいよ映画の社会学の講義が始まりました。毎年度楽しい授業になるように苦慮していますが、今年度はどのようになりますやら・・・。第1回目の講義は昨年とほとんど同じ内容です。ということで・・。
【教育目標】
映画を社会学の観点から研究する。
【授業内容】
映像学、映画論など映画に関連する立場からでなく、「社会学」の観点から研究します。したがって、「映画の社会学」は社会学という学問の一領域です。もちろん映画は「社会学」以外の学問領域で研究されています。たとえば、経済学、経営学、文学、心理学、芸術学など。
社会学の観点から研究するため、映画評論のような「評論」は原則的にしません。ただし映画評論の内容を研究の参考にすることはあります。
映画を対象に「研究する」のであって、映画を作るわけではありません。もちろん「映画の社会学」での研究成果が映画制作に役立ててほしいと考えています。研究している自分が作るつもりはない、ということです。
映画を使って何か他のテーマを勉強するのではなく、映画「自体」を対象に研究します。
【授業の進め方】
1.序論(授業内容の説明、方法論の紹介)
2~6.メディア論的方法(第1回リポート)
7~11.批評的方法(第2回リポート)
12~15.知的触媒として扱う方法(第3回リポート)
回数は多少ずれます。
授業の内容は、このWebページで公開するので、授業に出席できない場合、あるいは授業中によくわからなかった場合には、Webページを閲覧してください。過去の講義ノートをすべて公開しています。確認できる人は履修前に確認しておいてください。
【成績評価】
課題レポート(3回実施)。1回でもレポートを提出しなければ「失格」(欠席不足)になります。また内容が悪ければ、3回すべて提出しても「不合格」(不可:D評価)にします。
【レポート提出先】
レポートはMICCSおよび電子メールを使用します。しかしMICCSの動作が安定していないため、電子メールでの使用のみになる場合があります。yahooメールを利用して、レポートを提出する人は注意が必要です。受領確認のメールが迷惑メールとして処理される可能性があります。
質問メールはbunkei@fukujo.ac.jpまで、レポート提出はreport@bunkei.netまで送信。report@bunkei.netにメールを送信すると、自動返信の「受領確認メール」が送信されます。
【注意事項】
授業時間中に映画を鑑賞できない場合は、土曜日の午後に補講する可能性があります。履修前にこのことを確認してください(2~3回実施予定)。できれば、5時限目を補講にして、土曜日には実施しないようにしたいと考えています(木曜日の4,5時限目をとおしで)。
【私語について】
私が担当する授業では、私語=犯罪 と考えています。大学の授業は授業料によって購入された商品であり、授業中に私語をする行為は、他人の商品を盗むのと同じだとみなすからです。したがって、私語をする学生は「犯罪者」であり、私たち教員は一般の購入者(顧客)を犯罪者から保護する義務があります。もしも授業中に私語をした場合には、退室を要求します。悪質な場合には履修の取り消しを要求するか、評価を出しません。
<映画の社会学の視点について>
映画の社会学では原則的に以下の4つの方法からアプローチします。
メディア論的方法
批評的方法
知的触媒として扱う方法
社会学の題材として扱う方法
これ以外の方法によってアプローチすることもできます。しかし現時点ではこの4つの方法を用います。
<メディア論的方法>
映画をひとつのメディアとして扱った場合の特徴を研究します。メディアとは「コミュニケーションにおいて伝達したい内容(情報やメッセージなど)を相手に届けるための媒体(入れもの、器)」と定義できます。メディア論的方法では映画の内容よりも器としての特徴に着目するということです。
この方法では映画作品をばらばらに研究するのではなく、映画という共通するメディアを利用した作品群としてとらえ、全体に共通する特徴をつかみます。そのために他のメディア、新聞、テレビ、インターネット、演劇などとの比較が重要な手法となります。
その他、興行の視点や映画を上映する映画館、公国の支店からも研究します。
<批評的方法>
批評的方法は、メディア論的方法のように「全体」として研究するのではなく、個々の作品の内容をじっくりと研究します。この方法は映画評論の批評内容と重なります。
具体的には個々の作品の内容(製作者のメッセージを含む)、制作の手法、撮影された場所、映画が制作された時代や社会の影響、原作がある場合には原作(小説、マンガ、ドラマなど)との比較などが行われます。
<知的触媒として扱う方法>
この方法は批評的方法の一部をより発展的に用いたものです。たとえば次のような点に注目します。
観客に与える思想的影響(映画から生きがいが得られる、考え方が変わるなど)。
観客への行動の影響(将来設計が変わる、生き方が変わるなど)。
映画から受けた知識や認識をきっかけにして、深く思索(思惟)すること。
<社会学の題材として扱う方法>
この方法では、映画のシーンや作品全体のテーマを利用して、社会学の理論や考え方を説明します。
中学や高校などの授業(教育現場)で映画が用いられる場合のほとんどは、この方法です。たとえば「平和」や「生命」について考えるために、戦争の映画を観たり、人の死をテーマにした作品を見たりします。
この方法は他の方法と比較すると、より一般的な方法だと言えます。
<映画の社会学の目的>
映画の社会学は映画を作るという目的がないため、製作者の視点からは研究しません。
どちらかと言えば、「観客」の視点から研究します。
観客として「ぼーっ」と映画を楽しむのが一般的です。しかし製作者が何を考えて映画を作ったのか。映画を通して本当に伝えられたものが何かを知ったとき、今まで以上に映画に感動できるようになるかもしれません。ひょっとしたら今まででは面白くないと、と思われていた作品に感動できるかもしれません。このように映画の社会学は、素人でもより深く映画を楽しむための「ものの見方」を提供することができます。
2009映画の社会学 リポートが提出されています [映画の社会学]
そこで問題が・・・
映画の社会学は3回のリポート課題があります。この3回のリポートをすべて提出しなければ単位を取得することはできません。にもかかわらず1回目に未提出だった人が2回目から提出したり、2回目は提出しなかった人が3回目に提出したりしています。
いくら考えていいリポートを提出されても、3回そろわないと、不可です。これって授業に全然出席しないでテストだけ受けようというのと同じです。1回でも提出されなかった人は、残念ですが、単位を取得はあきらめるように。
あと2日。必死になって考えてください。
2009映画の社会学 第14.15講 知的触媒として扱う方法(3) [映画の社会学]
今回で最終講義になります。そして最後のリポート課題の発表です。冬休みの間にたくさんの映画をご覧になられましたか? 映画の見る視点が今までと変わってきましたか? 少しでも見方が変わったのならこの講義の目的の一つは達成しました。
さて最終レポートについてですが、
課題作品『誰も守ってくれない』(2009年公開)
監督:君塚良一
脚本:君塚良一、鈴木智
製作:亀山千広
第32回モントリオール世界映画祭にて最優秀脚本賞受賞
リポート課題:
「映画のメッセージについて考える」
映画のメッセージが何であるかを明確にし、そのメッセージについて考える。
2010年1月21日(木曜日)
提出方法はいつもの通りです。メールで提出される人は「受領確認メール」を確認してください。
注意事項としてはいつもの通り、これはリポートです。感想文や作文にならないように。自分主張は必ず根拠をあげること。論理的に書くこと。美しい文章にする必要はありません。
皆さんの力作を期待しています。読んでいて楽しい作品にしてください。
誰も守ってくれない プレミアム・エディション<初回生産限定> [DVD]
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2009映画の社会学 第13講 知的触媒として扱う方法(2) [映画の社会学]
今回の対象作品
『ブタがいた教室』(2008年公開)監督:前田哲製作:佐藤直樹プロデューサー:椋樹弘尚、田中正、廣瀬和宏、小川勝広脚本:小林弘利原作:黒田恭史、2003、『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日』ミネルヴァ書房1990-92年、大阪の小学校の実話
映画の演出上の特徴
ドキュメンタリータッチな演出。
→豚を飼う様子をとらえたシーン
→子どもたちだけの行動をとらえたシーン
☆特に教室での子どもたちの話し合いのシーン
ドキュメンタリータッチな演出の理由
実話であるということを想起させる=フィクションではない
映画が教育現場で用いられることを想定し、視聴する子どもたちにリアリティを与えるため。
→そのためには、指導された「演技」ではなく、より自然な反応を導き出す必要がある。
自然な反応を導き出すための工夫
子どもたちにはセリフが書かれた台本を渡していない。
→子どもたちは与えられたセリフではなく、自分たちの感じたことを発言している。
→合いの手やチャチャも子どもたちのアドリブ(公式ホームページにかかれている)
セリフや筋書きを知っているのは大人だけ
→教室のシーンでは先生役の妻夫木だけにセリフが与えられている。しかし妻夫木はセリフ通りに話していては子どもたちの反応に合わない。そこで彼は「先生」になりきらなければならなかった。
→本当の先生と生徒のように(演出は最低限におさえられた)
実話を元にした映画の難しさbased on true story
実話を元に映画化された作品は多い。しかしながら、・・・
実在の人物の生活をそのまま時間軸通りに描いても、平凡すぎて感動がない。
→時間軸を編集する。900日から1年へ
人物設定を大きく変更すると実在の人間から離れてしまい、実話をもとにする意味がない。
→実在の人物を彷彿させる設定にする。→登場人物を知っている人を納得させる。
実在の人物のメッセージをできるだけ忠実に再現。
→映画向きに脚色。
実話を元にした映画の例
『エリン・ブロコビッチ』(2000)ージュリア・ロバーツ
『タイタンズを忘れない』(2000)-デンゼル・ワシントン
『オールド・ルーキー』(2002)ーデニス・クエイド
『スタンドアップ』(2005)-シャーリーズ・セロン
『Life 天国で君に逢えたなら』(2007)
『フラガール』(2006)
映画のメッセージについて考える
人間は他の生物の生命を犠牲にして生きている。
→人間の原罪
上記のメッセージを教育現場で「教える」にはどのような手段が適切か?
食材を選択する
国や民族によって食材が変わる
鯨を食べない
たこを食べない
犬を食べない
公園にいる鳩を食べない
豚を食べない・・・
人間は自己中心的でわがままだ。食材を選択するのだから・・・。
映画のメッセージについて考える
動物の肉を食べる=動物を殺す
→この関係を理解していない子どもがいる。
自分が食べている肉について何も知らない子どもたち
どうして何も知らなくなったのだろうか?
我々が食べている肉は、加工された形で、スーパーで販売されている。
→我々は生きている動物を殺して加工しているということをほとんど意識しない。
→食肉用の家畜が生きている姿を我々はほとんど見ない。
牧場にいる牛を見て「おいしそう」と考える人はいない。
他の動物のことを知らない子ども
食材についても知らない子どもたちは、実際の動物がどのような容姿かもよく知らない。都市部では家畜に遭遇することもなく、実際に鶏や豚、牛などに触れられない。また実際に動物をみたとしても、それが食材になるとは意識できないようだ。
他の生物の生命をうばいとるという人間の原罪を教育現場で・・・
戦後数年間は、生きた動物(鳥や豚など)が市場で売られていた。それを自宅で殺して食べた。そのほかの食材についても自分たちで収穫したり、採集したりして入手してきた。
産業構造の変化とともに家庭で行われていたこれらの作業を企業が代行して行うようになる。
その結果、我々は加工された食材を購入して消費するようになった。
他の生物の生命をうばいとるという人間の原罪を教育現場で・・・
他の生物の生命を「いただく」ということを実感させるためには、「体験」させるのが適切。
しかし様々な理由によってこれらの「体験」教育が実施困難になっている。
体験授業が困難になっているわけ
週休2日、ゆとり教育の関係で授業時間数が減少。特に理科は実験時間が確保できなくなった。
豚を育てて食べるという課題にはかなり授業時間を必要とする。
→授業時間が不足する。
ペットのように育てた動物を「殺す」という行為は、子どもの心を傷つける可能性がある。
→このことが授業のテーマ
衛生上の問題;豚に対するイメージ
そもそも体験自体が・・・
先ほども触れたようにそもそも現代の子どもたちは体験する、ということさえも自由にできない。
第二次世界大戦後、子どもたちは様々な体験の機会を喪失している。
たとえば現在中学校では職業体験と呼ばれる体験授業が行われているが、戦前は子どもは親が働いている風景を身近で見ていた。そんな時代はわざわざ職業体験などする必要はなかった。
自然体験と言っても、画一化され、用意されたフィールドで大人の指示に従って体験する。
こうして規格化された状況になれすぎた人間は、イレギュラーに対応できない
小学校で豚を育てて食べるという体験は、「イレギュラーな出来事」である。
規格化された教育に慣れた教員、保護者はそうしたイレギュラーに対応できなくなっている。
しかし、子どもたちはどうか??? おそらく大人よりも子ども方がイレギュラーに対応できる。
今回は映画を触媒にして様々な形で発想してみた。この知的触媒として扱う方法は、このように自由に発想して議論を深め、あるいは広めていくことを目的とする。その中で新たに知見を得るかもしれない。また自分の人生を見つめ直す機会ができるかもしれない。
短い休み期間中に自分自身でいろいろな映画について発想を巡らせてほしい。
*今回は語調が変わっています。どうかご容赦を。
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クリスマスシーズンなので・・・。
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2009映画の社会学 第12講知的触媒として扱う方法(1) [映画の社会学]
批評的方法の一部。
観客に与える思想的影響(生きがいを得る、考え方が変わるなど)。
観客の行動への影響(将来設計が変わる、生き方が変わる)。
映画から受けた知識や認識をきっかけにして、深く思索(思惟)する。
というものです。映画を触媒にしていろいろ考える、ということです。ということで授業では次の作品を対象にして議論したいと思います。
『ブタがいた教室』(2008年公開)
監督:前田哲
製作:佐藤直樹プロデューサー:椋樹弘尚、田中正、廣瀬和宏、小川勝広
脚本:小林弘利
原作:黒田恭史、2003、『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日』ミネルヴァ書房1990-92年、大阪の小学校の実話
2009映画の社会学 第10講、11講 批評的方法(4) [映画の社会学]
原作と小説の比較
第2回レポート
課題作品
『県庁の星』(2006年公開)
監督:西谷弘
脚本:佐藤信介
製作:島谷能成、亀山千広、永田芳男、安永義郎
細野義朗、亀井修
原作:桂望実、2005、『県庁の星』小学館
第2回レポート課題
「二宮あきの設定変更の理由と映画における効果について論述する」
登場人物のひとり二宮あきは、原作では「19歳の息子がいる45歳の女性(二宮泰子)」。映画版では「弟と同居する野村よりも年下の女性」に変更された。この人物設定変更の理由と変更によって生じたであろう効果について論述する。
レポート期限
2009年12月17日(木曜日)授業開始時間
レポートの注意事項
小論文にすること。感想文や作文ではない。
箇条書きやメモ書きの様式ではなく、文章で表現すること。
レポート提出方法
MICCSあるいは電子メールを利用すること。
電子メールの場合、「受理確認メール」(自動応答)を確認すること。ドメイン指定に注意!
監督について
『県庁の星』の監督は西谷弘。西谷はテレビの演出家出身で、「女子アナ」(2001),「天体観測」(2002),「白い巨塔」(2003),「ラストクリスマス」(2004),「エンジン」(2005),「ガリレオ」(2007)などを担当する。
→最近はテレビの演出家出身者が映画監督になることが多い。(テレビ版、映画版の連続性)
→テレビ的な演出が映画にみられる。
→CMディレクターが映画監督してデビューすることも少なくない。
→CMのような映像がみられる。
2009映画の社会学 第9講 批評的方法(3) [映画の社会学]
2009映画の社会学 第9講 批評的方法(3) 原作と映画の比較
題材:
『Little DJ 小さな恋の物語』(2007年公開)
監督:永田琴
脚本:三浦有為子、永田琴
音楽:佐藤直紀
プロデューサー:森谷雄、千葉伸大、遠藤日登思
原作:鬼塚忠、2007、『Little DJ 小さな恋の物語』ポプラ社
映画製作の背景についてはホームページを参照してください。
<私が考えるこの作品のポイントの一つ>
この作品は白血病・恋愛作品というジャンル(このジャンル分けは私が勝手に作りました)では、主人公は一般的に「女の子」になります。例えば、
わたし的に決めている白血病・恋愛三部作は以下の通りですが、これらの作品はすべて女性が主人公で、女性が白血病で死んでいきます。
『ある愛の詩』(1970年公開、この作品も小説と映画が同時進行)
『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004年公開)
『A WALK TO REMEMBER』(2002年公開)
この三部作は『ロミオとジュリエット』の枠組みを利用しています(Love Storyの典型)。映画を制作する時に過去の作品、あるいは有名な戯曲、物語の枠組みを利用することはよくあります。
ところが、「Little DJ」では主人公は男の子です。理由はおそらくストーリーのもとになった実話の主人公が男の子(少年)だったからでしょう。しかしそれでも白血病・恋愛作品としては死亡する主人公が男の子である、というのは一般のイメージとは異なるため、工夫が必要です。
それでは女性が白血病で死ぬ、という一般的なイメージはどのような理由で形成されたのでしょうか。
「美人薄命」という言葉があります。一般に美人は早くなくなる、というイメージがあるということですが、まぁ、男性より女性の死の方が美しい、ということでしょう。これが女性が主人公である理由の一つです。
つぎに男性が残されることで深い悲哀が表現される、ということが考えられます。『いま、会いに行きます』という作品では男性が残されており、男性の悲哀が表現されていました。また『ある愛の詩』でもライアン・オニールがなくなった女性を悼んで嘆いているシーンが印象的に描かれています。
これらが女性が亡くなる理由です。
次になぜ「白血病」なのか、ということですが、1970年代には若者の死因として、白血病が結核を上回りました。こうして現実社会の変化が作品にも影響したと考えられます。
次に「設定の変更」について考えてみましょう。
<設定の変更(1) ストーリーの枠組み>
映画 | 小説 |
---|---|
現在-2006年深夜放送:ラジオスタジオ~少年の部屋~タイトルバック 過去ー1977年函館~学校の校庭~野球の試合 現在-2006年函館:太郎の自宅 | 過去-1977年~横須賀の小学校の校庭~野球の試合 現在-2006年深夜放送:ラジオスタジオ~たまきはDJ~過去の病院へ |
枠組みを変更した理由:
<過去→現在>の形式:現在の自分は過去の自分があったから存在する:過去との連続性
<現在→過去→現在>の形式:過去の現在に与える影響力は大きいということが強調される。
Ex.『セカチュー』では現在と過去が交互に映し出され、過去の時間の流れと現在の時間の流れがパラレルであることが表現されます。そのことによって主人公が過去に縛られ、抜け出せないことが強調されました。
また劇中の太郎のラブレターに書かれた「忘れないで」というメッセージが実現していることを表現できます。
→ただしこれは映画を最後まで観ないとわかりません。
<設定の変更(2) 舞台の変更>
映画 | 小説 |
---|---|
太郎が入院した病院:函館郊外の海辺の病院 自宅:函館市 | 太郎が入院した病院:三浦半島(久里浜駅)の海辺にある病院 自宅:横須賀市 |
舞台を変更した理由:
1.作品を映像化した時に、変更した方がイメージ近い。
『Little DJ』の場合:プロデューサーが以前から気になっていた函館に監督を連れて行き、あちらこちらをロケハンしたそうです。函館は1977年の街並みを残しており、函館市から1時間程度の場所に病院があり、また星の鑑賞にぴったりな場所(函館山)がありました。これが舞台を横須賀から変更した理由です。
イメージに合わせて、原作とは異なる舞台を設定した作品
『クローズドノート』:原作は東京(?)。映画は京都-奈良。ただし劇中ではどこが舞台になっているのかは説明がありません。私はもともと京都人だったので、というか、私が子どもの頃からよく遊び回っていた場所が登場したので、どこで撮影されたのかがすぐにわかりました。
2.FCの誘致活動の成果
ロケ撮影が容易に行われる場所を選択するという場合です。
『西の魔女が死んだ』:セットの建築が容易
→清里清泉寮にはセットが残っています。
『海猿』:鹿児島→宮崎
→あくまでも設定は鹿児島でしたが、実際には宮崎で撮影されました。
<設定の変更(3) 人物設定の変更
登場人物の年齢変更
小説:太郎やたまきは小学生
映画:太郎やたまきは中学生
太郎中1、たまき中2
理由として考えられること:
二人の間の感情を「恋愛」として表現するため。
→小学生:恋心 → 中学生:恋愛 というイメージ
人間としての自立性をより強調するため。
「年下の男の子」を効果的に使うため。
映画 | 小説 |
---|---|
クラッチの位置づけの変更 | クラッチの位置づけの変更病院ではいたずら小僧で、たまきをいじめ、太郎とはけんかする。しかし退院後は太郎とたまきを助ける。基本的に太郎とたまきの仲をとりもつ。出会いはクラッチをきっかけにしている。最初にリクエストするなど。 |
人物設定変更の理由:
枝になるトピックを削除して中心となるストーリーを際立たせるため。
時間短縮のため
↑以上は一般的な理由、以下はこの映画独自の理由
二人が誰かをきっかけにして出会うのではなく、「運命的」な出会いとして表現するため。
→太郎とたまきは同じ日に入院する(原作とは異なる)。
成人したたまきの設定変更
小説:ラジオ局のDJ
映画:ラジオ局のディレクター
理由:
太郎があこがれていたDJ尾崎を番組に呼んで太郎の最後のリクエストはがきを読ませるため。
*その他、人物設定変更の事例
映画化に際して登場人物を減らしたり、増やしたりする場合がある。
Ex.『セカチュー』:無名の少女が「律子」としてキャラ設定される。朔太郎の現在と過去を客観的に結びつけると同時に、朔太郎を過去の呪縛から解放するためのキーパーソン。
<設定の変更(4) テーマの変更>
映画 | 小説 |
---|---|
「伝える」:DJとしてのアイデンティティ→「DJをしていることが生きているということ」 太郎とたまきの恋愛 →2つがメインテーマ 親子:父と息子→サブテーマ | 「伝える」:DJとしてのアイデンティティ 太郎とたまきの恋愛 親子:父と息子→3つがテーマ |
小説では主人公が「男の子」であることを意識して「父-息子」のテーマが重視されています。
父-息子の関係:父と息子の葛藤
高野 父-息子(正彦-太郎)
正彦-正彦の父
結城 父-息子(道夫-周平)
高崎 父-息子(雄二-太郎):大先生-若先生
映画版ではテーマを単純化するためにサブテーマになりました。
<設定の変更(5) シーンの変更>
映画では大幅にシーンを削除したり、シーンを追加したり、順序を並び替えたりします。
削除されたシーンの例:
太郎のいない病室で一人リラックスする母(ひろ子)のシーンとその心情
タエのリクエストと戦争中の話(タエの息子と大先生は戦友)
太郎が「ラストコンサート」のLPをたまきに渡すシーン
太郎が絶対安静になって放送を中止した後、リクエストされた人へ太郎が返事を書くシーン。
(映画ではタエが返事を手でなでている)
映画館からたまきの家に逃げるシーン
追加されたシーンの例:
冒頭、たまきが全身包帯で覆われて運ばれるシーン
→前述の通りの理由
オリオン座願い星のシーン
→二人の秘密:親密性の表現
函館山でのエピソード
→太郎の強い想いとたまきに対する気遣いを表現
太郎が書いたラブレターを正彦が読むシーン
→「伝える」というテーマを表現するためのアイテム
内容が変更されたシーンの例:
【サングラス】周平がサングラスを太郎に贈る(小説では結城が渡す)→あこがれの人から直接渡される方が太郎の喜びが大きい。周平の感謝の気持ちを表現。
【最初のリクエスト】結城が死の直前に(小説ではクラッチ)
【最初の生放送】結城のリクエストに応えるため(小説ではタエをゲストに迎えるため)→結城に対する想いと同時に「死」に対する太郎の関心の深さを表現する。
【たまきの退院】大先生の選曲で「亜麻色の乙女」を放送(小説ではたまきのリクエストで「ラストコンサート」→ここでたまきのリクエストに応えてしまうと、エンディングで表現されるDJとしての太郎の気持ちを効果的に描写できない。
順序が変更されたシーンの例
【両親がマル秘ノートに書かれたALLという言葉に気づくシーン】大部屋に移ってすぐにこのシーンがある(小説ではたまきが退院した後)
→観客は後半の「告知」のシーンで、太郎は早いうちから自分が白血病であったことを知る。自分が長い間苦しんでいるにもかかわらず母を気遣い、「もう秘密にしなくてもいいよ」と言うということに観客は感動する。シーンの順序を変更することで感動が大きくなる。
シーンが変更される理由:
1.上映時間の問題→映画館で上映される映画の時間はおおよそ2時間
2.テーマの明確化およびストーリーの単純化
→小説という印刷媒体の場合、読者は時間があるときに自分のペースで本を読む。理解できない場合にはもどって読み直す。映画館で上映される映画は途中でとめることができない。理解できなくてもストーリーは展開する。したがって1回で観客の視聴覚に訴える作品にする必要がある。
3.ストーリーの焦点の明確化
→テーマにあわない観客を不快にさせるシーンはカットする(暴力シーンや辛酸なシーンなど)。
4.理解度をあげる
→登場人物を減らしてストーリーを単純化することによって感情移入を容易にする。
5.時代設定への適合
→原作とは異なる時代設定をした場合には、観客に違和感を感じさせないように変更を加える。
<設定の変更(6) キーアイテムの利用>
映画は視聴覚を利用するメディアであるため、主人公の心情を象徴的に表現するアイテムが用いられる(上映後にアイテムが販売されることが多い)。
「Little DJ」:マル秘ノート、レコード、ラジカセ、サングラス、ラブレター、映画、リクエストはがき、トンボ玉
「セカチュー」:カセットテープ、WALKMAN
「クローズドノート」:ノート、万年筆、紙飛行機
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