映画の社会学2011第1講 序論 [映画の社会学]
映画の社会学 第1講 序論
イントロダクション
授業内容の説明、方法論の紹介
映画略史
<前半はシラバスの紹介>
<注意事項>
課題リポート(3回実施)。1回でもリポートを提出しなければ「失格:F評価」になります。また内容が悪ければ、3回すべて提出しても不合格(不可:D評価)になります。
大学の授業は授業料によって購入された商品。授業中に私語をする行為は、他人の商品を盗むのと同じだと見なされます。
私語=犯罪
私語をする学生は「犯罪者」。教室からの退室、履修の取り消しを要求します。
<映画略史>
映画の原点である原理は、1824年 イギリスのピーター・ロジェが発表した論文にあります。『うごくものの視覚的残像』という論文です。これは端的に言えば残像の原理です。人間の目は実際に見ているものよりも少し長い時間、その像を捉えています。そのため次々と別の像が現れているにもかかわらず、その新しい像を連続した像としてとらえます。こうして映画の歴史が幕開けすることになりました。
端的に言えば映画の原理はばらばらマンガの原理です。もう少し別の表現をすれば映画の原点はアニメーションにあります。
残像を利用した動画には当初、絵が用いられていましたが、写真技術の発展とともに絵の代わりに写真が用いられるようになり、それらを円筒の内側に貼り付けて回して見るという、ゾエトロープやブラキシノスコープが発明されました。
こうした写真技術の発展と同時に、写真を投影するという技術も発展していきます。さらに写真や投影に関わる様々な材質の開発がありました。こうして静止画を記録し、記録されたものを投影するという技術が発展することによって映画発明の下地が完成しました。
そして1895年フランスのリュミエール兄妹がシネマトグラフを発明し、発表しました。これが最初の映画です。これが全世界に広がっていきます。日本では1897年シネマトグラフが輸入公開されてました。シネマトグラフの発明からわずか2年で日本に映画が登場したのです。そして1899年には日本人による作品の制作・公開されます。
さてそもそも映画を英語では、motion pictureといいます。その他、アメリカではmovie , moving picture , film、イギリスではcinemaとも呼びます。motion pictureは、動きのあるうつされた写真という意味にとれます。ちなみに日本では、映画導入当時は「活動写真」と呼ばれていたが、次第に「映画」と呼ばれるようになる。動作やしぐさが描かれた写真というよりも、映し出された写真というイメージの方が強かったのでしょう。ここには文化的な相違が見られます。
motion pictureと呼ばれるのは、その発明過程に理由があります。前述のように映画は基本的にぱらぱらマンガやアニメーションと同じ原理で作られます。この仕組みがmotion pictureと呼ばれる理由です。
このぱらぱら漫画の原理を利用した動画は誰でも簡単に作成することができます。ビデオなど必要ありません。デジカメで1枚1枚写真を撮っていくことで動画に変換することができるのです。
。映画草創期においては、映画は無声映画であり、放映と同時に弁士が話をしたり、オーケストラが音楽を演奏したりした。その後、1926年にワーナー・ブラザーズがフィルムの放映にあわせて、あらかじめ録音してあったディスクを再生するという、トーキー映画が開始され、1931年にサウンドトラックのついたフィルムが発明され、ついにほぼ現在の映画と同じ作品が作られるようになります。ただしこの時期に撮影された作品は黒白作品です。
1935年に本格的なカラー映画が製作されるようになり、1950年に普及、以後、作品として何らかの意味がない限り、カラー作品が製作されるようになります。
日本に映画が導入されるのは、リュミエール兄弟がシネマトグラフを発明した時期とほとんど同じで、1987年です。今年は日本で映画が公開されてから110年こえました。当時は活動弁士と呼ばれる人が、リズム感あふれる口調で映像にあわせて話をしていました。1899年には日本人によって日本映画が作られます。その後、着実に日本映画は産業として成長していくことになりました。
映画が発明された後、映画はどのような場所で上映されたのでしょうか? もちろん発明当初、映画を専用に上映する場所、映画館はありません。そこで最初のうち、映画は劇場や見せ物小屋などで上映されました。映画館を英語ではmovie theaterというのはその名残でしょう。日本では歌舞伎が上演されている劇場でも公開されました。そして何かの都合で歌舞伎が上演できなくなったときのために、あらかじめ歌舞伎を撮影し、それを上映したそうです。
こうして映画が登場して普及するに従って、演劇が映画に駆逐されるようになります。演劇と映画を比較するといくつかの相違点が指摘できます。
・入場料委金の違い
・鑑賞機会の違い
・内容の親しみやすさ
そして映画は演劇に代わる娯楽としての地位を確立していきます。1910年以降、映画専用の建物「映画館」が都市部を中心にして建築されるようになり、歌舞伎などの演劇よりも安価に映画が上映されます。こうして日本映画は娯楽としての地位を確立することになりました。
日本映画が産業として絶頂期を迎えるのは、石原裕次郎が日活映画に出演した1958年頃です。この年の年間映画人口は約11億2000万人で映画館数は約7000館に上ります。製作された日本映画は504本、公開された海外映画は171本でした。しかしこれをピークに日本における映画産業は斜陽の時期に入り、1975年の年間映画人口は約1億7000万人、映画館数は2500館となります。製作された日本映画は356本、公開された海外映画は245本となり、この後、日本で公開される海外映画が日本映画を上回るようになりました。そしてついに1994年、年間映画人口は1億2000万人、映画館数は1700館まで減少する。製作された日本映画は251本、公開された海外映画は302本です。つまり映画産業は海外からの輸入作品に依存しています。
しかしこの後、映画の興行収入は1996年を底に上昇をはじめます。興行収入、映画館数ともに増加し、2004年には過去最高の興行収入を記録します。この背景にはシネマコンプレック形式の映画館の増加、映画製作方式の変換などがあります。
このように映画は演劇に変わる娯楽として登場し、庶民の娯楽として定着しました。それでは映画は演劇と比較してメディアとしてどのような特徴があるのでしょう。
イントロダクション
授業内容の説明、方法論の紹介
映画略史
<前半はシラバスの紹介>
<注意事項>
課題リポート(3回実施)。1回でもリポートを提出しなければ「失格:F評価」になります。また内容が悪ければ、3回すべて提出しても不合格(不可:D評価)になります。
大学の授業は授業料によって購入された商品。授業中に私語をする行為は、他人の商品を盗むのと同じだと見なされます。
私語=犯罪
私語をする学生は「犯罪者」。教室からの退室、履修の取り消しを要求します。
<映画略史>
映画の原点である原理は、1824年 イギリスのピーター・ロジェが発表した論文にあります。『うごくものの視覚的残像』という論文です。これは端的に言えば残像の原理です。人間の目は実際に見ているものよりも少し長い時間、その像を捉えています。そのため次々と別の像が現れているにもかかわらず、その新しい像を連続した像としてとらえます。こうして映画の歴史が幕開けすることになりました。
端的に言えば映画の原理はばらばらマンガの原理です。もう少し別の表現をすれば映画の原点はアニメーションにあります。
残像を利用した動画には当初、絵が用いられていましたが、写真技術の発展とともに絵の代わりに写真が用いられるようになり、それらを円筒の内側に貼り付けて回して見るという、ゾエトロープやブラキシノスコープが発明されました。
こうした写真技術の発展と同時に、写真を投影するという技術も発展していきます。さらに写真や投影に関わる様々な材質の開発がありました。こうして静止画を記録し、記録されたものを投影するという技術が発展することによって映画発明の下地が完成しました。
そして1895年フランスのリュミエール兄妹がシネマトグラフを発明し、発表しました。これが最初の映画です。これが全世界に広がっていきます。日本では1897年シネマトグラフが輸入公開されてました。シネマトグラフの発明からわずか2年で日本に映画が登場したのです。そして1899年には日本人による作品の制作・公開されます。
さてそもそも映画を英語では、motion pictureといいます。その他、アメリカではmovie , moving picture , film、イギリスではcinemaとも呼びます。motion pictureは、動きのあるうつされた写真という意味にとれます。ちなみに日本では、映画導入当時は「活動写真」と呼ばれていたが、次第に「映画」と呼ばれるようになる。動作やしぐさが描かれた写真というよりも、映し出された写真というイメージの方が強かったのでしょう。ここには文化的な相違が見られます。
motion pictureと呼ばれるのは、その発明過程に理由があります。前述のように映画は基本的にぱらぱらマンガやアニメーションと同じ原理で作られます。この仕組みがmotion pictureと呼ばれる理由です。
このぱらぱら漫画の原理を利用した動画は誰でも簡単に作成することができます。ビデオなど必要ありません。デジカメで1枚1枚写真を撮っていくことで動画に変換することができるのです。
。映画草創期においては、映画は無声映画であり、放映と同時に弁士が話をしたり、オーケストラが音楽を演奏したりした。その後、1926年にワーナー・ブラザーズがフィルムの放映にあわせて、あらかじめ録音してあったディスクを再生するという、トーキー映画が開始され、1931年にサウンドトラックのついたフィルムが発明され、ついにほぼ現在の映画と同じ作品が作られるようになります。ただしこの時期に撮影された作品は黒白作品です。
1935年に本格的なカラー映画が製作されるようになり、1950年に普及、以後、作品として何らかの意味がない限り、カラー作品が製作されるようになります。
日本に映画が導入されるのは、リュミエール兄弟がシネマトグラフを発明した時期とほとんど同じで、1987年です。今年は日本で映画が公開されてから110年こえました。当時は活動弁士と呼ばれる人が、リズム感あふれる口調で映像にあわせて話をしていました。1899年には日本人によって日本映画が作られます。その後、着実に日本映画は産業として成長していくことになりました。
映画が発明された後、映画はどのような場所で上映されたのでしょうか? もちろん発明当初、映画を専用に上映する場所、映画館はありません。そこで最初のうち、映画は劇場や見せ物小屋などで上映されました。映画館を英語ではmovie theaterというのはその名残でしょう。日本では歌舞伎が上演されている劇場でも公開されました。そして何かの都合で歌舞伎が上演できなくなったときのために、あらかじめ歌舞伎を撮影し、それを上映したそうです。
こうして映画が登場して普及するに従って、演劇が映画に駆逐されるようになります。演劇と映画を比較するといくつかの相違点が指摘できます。
・入場料委金の違い
・鑑賞機会の違い
・内容の親しみやすさ
そして映画は演劇に代わる娯楽としての地位を確立していきます。1910年以降、映画専用の建物「映画館」が都市部を中心にして建築されるようになり、歌舞伎などの演劇よりも安価に映画が上映されます。こうして日本映画は娯楽としての地位を確立することになりました。
日本映画が産業として絶頂期を迎えるのは、石原裕次郎が日活映画に出演した1958年頃です。この年の年間映画人口は約11億2000万人で映画館数は約7000館に上ります。製作された日本映画は504本、公開された海外映画は171本でした。しかしこれをピークに日本における映画産業は斜陽の時期に入り、1975年の年間映画人口は約1億7000万人、映画館数は2500館となります。製作された日本映画は356本、公開された海外映画は245本となり、この後、日本で公開される海外映画が日本映画を上回るようになりました。そしてついに1994年、年間映画人口は1億2000万人、映画館数は1700館まで減少する。製作された日本映画は251本、公開された海外映画は302本です。つまり映画産業は海外からの輸入作品に依存しています。
しかしこの後、映画の興行収入は1996年を底に上昇をはじめます。興行収入、映画館数ともに増加し、2004年には過去最高の興行収入を記録します。この背景にはシネマコンプレック形式の映画館の増加、映画製作方式の変換などがあります。
このように映画は演劇に変わる娯楽として登場し、庶民の娯楽として定着しました。それでは映画は演劇と比較してメディアとしてどのような特徴があるのでしょう。
番組誕生40周年記念盤 8時だョ!全員集合 2008 DVD-BOX【通常版】
- 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
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ザ・ドリフターズ 結成40周年記念盤 8時だヨ ! 全員集合 DVD-BOX (通常版)
- 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
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TBS テレビ放送50周年記念盤 8時だヨ ! 全員集合 2005 DVD-BOX (通常版)
- 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
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2010映画の社会学第14,15講 知的触媒として扱う方法(3) [映画の社会学]
映画の社会学第14,15講 知的触媒として扱う方法(3)
知的触媒として扱う方法を実践する、ということで第3回目のリポートです。
課題作品:
『私の中のあなた』(2009年)
監督:ニック・カサヴェテス
出演:キャメロン・ディアス、アビゲイル・プレスリン
原作:ジョディ・ピコー,『私の中のあなた』(早川書房)
課題:「知的触媒として扱う方法の実践」
作品を触媒にして想像力を発揮して、いろいろ考え、論述する。
期限:2011年1月26日(水曜日)午後17時まで
提出先: 電子メールあるいはMICCS
電子メールでの提出先と質問先については授業中に説明してます。出席していない人は、必死になって探すように。提出されないと「失格」です。
<注意事項>
箇条書きやメモ書きの様式ではなく、文章で表現すること。
分量:800字以上
メールで提出する場合は提出先を間違えないように
MICCSあるいは電子メールを利用すること。
電子メールの場合、「受理確認メール」(自動応答)を確認すること。ドメイン指定に注意!
ケータイメールを許可する。
知的触媒として扱う方法を実践する、ということで第3回目のリポートです。
課題作品:
『私の中のあなた』(2009年)
監督:ニック・カサヴェテス
出演:キャメロン・ディアス、アビゲイル・プレスリン
原作:ジョディ・ピコー,『私の中のあなた』(早川書房)
課題:「知的触媒として扱う方法の実践」
作品を触媒にして想像力を発揮して、いろいろ考え、論述する。
期限:2011年1月26日(水曜日)午後17時まで
提出先: 電子メールあるいはMICCS
電子メールでの提出先と質問先については授業中に説明してます。出席していない人は、必死になって探すように。提出されないと「失格」です。
<注意事項>
箇条書きやメモ書きの様式ではなく、文章で表現すること。
分量:800字以上
メールで提出する場合は提出先を間違えないように
MICCSあるいは電子メールを利用すること。
電子メールの場合、「受理確認メール」(自動応答)を確認すること。ドメイン指定に注意!
ケータイメールを許可する。
2010映画の社会学第13講 知的触媒として扱う方法(2) [映画の社会学]
映画の社会学 第13講 知的触媒として扱う方法(2)
知的触媒として扱う方法を試す
社会学的想像力
今回は、レジメのみの記載です。授業のなかでやりとりした内容までは公表しません。
知的触媒として扱う方法
この方法は批評的方法の一部をより発展的に用いたもの。たとえば次のような点に注目する。?観客に与える思想的影響(映画から生きがいが得られる、考え方が変わるなど)。?観客への行動の影響(将来設計が変わる、生き方が変わるなど)。?映画から受けた知識や認識をきっかけにして、深く思索(思惟)すること。
社会学的想像力を発揮して映画から様々なことを連想する。
課題作品
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦』
公開日:2002年4月20日
『クレヨンしんちゃん』劇場映画シリーズ10周年記念作品
監督:原恵一(アニメ版『カラフル』)、原作:臼井儀人
作画監督:原勝徳、大森孝敏、間々田益男
キャラクターデザイン:末吉裕一郎
美術監督:古賀徹、清水としゆき
撮影監督:梅田俊之
興行収入13億円
子ども向け作品?
子ども向け映画作品は幼稚で大人の視聴に堪えない?
→子ども向けといわれる劇場作品(『ドラえもん』、『ポケモン』、『名探偵コナン』、『プリキュア』など)は子どもだけが楽しめるもので、大人は感動できないのか?
子ども向け作品?
テレビ放送作品とは異なり、子ども向けの作品は子どもだけでは鑑賞しない。
→子ども向けの劇場作品は大人が同行する。
→大人も楽しめる作品、感動できる作品であるとわかれば大人は子どもを連れて映画を鑑賞する。
観客動員数を動員するためには完全な子ども向けの内容にしない。
→子ども向けの劇場映画をなめんなよ!
子ども向け作品?
それでは子ども向けの作品を大人が観て「楽しい」と感じるのは、作品が大人の視聴に耐えるだけのストーリーになっているから「だけ」なのか?
→子ども向け作品から「卒業しない」大人
→アニメや漫画に慣れた大人
☆子ども向け作品を面白いと感じる大人が増えた!
シリーズから独立した作品
『ドラえもん』『ポケモン』『クレヨンしんちゃん』などの作品は毎週テレビ放送されているシリーズ作品。劇場映画はテレビ放送されたシリーズからは独立したストーリーになっている。
→劇場映画しか見ない観客への配慮
→シリーズの統一性がくずれる
→しかしながら劇場映画もシリーズの影響を受けている
☆課題作品は独立した作品としての完成度が高い
→クレヨンしんちゃんの世界から切り離された実写映画に!
→しんちゃん一家とは異なった設定にしても違和感がない
なぜ戦国時代が舞台に?
「歴史ブーム」との関連は?
→NHKの大河「篤姫」(2008)、「天地人」(2009)
→戦国BASARAシリーズ(PS2:2005,2006,wii:2010)
→信長の野望シリーズ(1986,1988,1990,1992,1994,1997,1999,2001,2002,2003,2005,2009)
→「三國無双」(1997,PS)
→真・三國無双シリーズ(2000,2001,2003,2005,2007,2011・・)
→戦国無双シリーズ(2004,2006,2009)
☆現在の歴史ブームとは直接関係はない。しかし歴史ブームの一翼を担うことに・・・実写版
なぜ戦国時代が舞台に?
戦国時代は日本の歴史の中でもっとも自由な時代。
→農民が武士になれた時代
→身分が崩れた時代(身分の差をこえた愛が可能?)
→個人の才能を発揮できた時代
社会史という学問領域が発達し、これまでの伝統的な歴史では登場しなかった人物の情報が発掘されるようになった。また庶民の生活が具体的な形で明らかになった。
→課題作品では戦国時代の風景や生活が正確に描写されている。
なぜ戦国時代なのか?
子どもたちはちゃんばら好き?
→冒頭の幼稚園の場面で子どもたちがちゃんばら遊びをしているシーンがある。子どもたちは現在でもけっこうチャンバラが好き。
日本の歴史の中で、チャンバラのように斬り合うことがあったのは戦国時代だけ。そのほかの時代はチャンバラのような斬り合いのある戦いはなかった。
子どもへの配慮
課題作品は合戦の場面で多くの人間が死ぬ。子ども向けのギャグアニメとしては異例である。しかし戦国時代ではいつでも領土争い、権力争いが生じており、医療スキルも低く、医者もいない。食料も不足していて誰かが死ぬということが当たり前の時代。だから死が登場するのは当然である。
しかし、「流血場面はない」「身体が切断される場面はない」
→他の子ども向け作品でも同じ。
→死が全く描かれていない作品もある。
『もののけ姫』(1997年公開)
→流血シーン、身体の切断シーンがある
子どもへの配慮
「平成仮面ライダーシリーズ」(2000年?)は人間が無惨に殺されていくシーンが多い。殺人がゲームになっている。
→子ども向け番組の枠組み(テレビ朝日日曜8時?)を利用しながら、子どもだけを対象にしたのではなく、自分たちが納得できる作品を作った? :子ども向け作品の枠組みを壊した??
→子ども向け作品の変化?
→「仮面ライダーシリーズ」はイケメン俳優輩出作品へ
(子どもの母親がファンに・・・)
ヒーロー・ヒロイン作品
大きく変化したシリーズ作品。劇場作品「ウルトラマンティガ THW FINAL ODDYSSEY」(2000年公開,TVシリーズは1996?)では、主人公がキスをして結婚した(ウルトラマン史上初)。劇場版「大決戦!超ウルトラ8兄弟」(2008年公開)では、アラフォー(現在子どもの親世代)向けのスポットCMが制作された。
どちらも従来の子ども作品にはなかった要素が多く含まれている。多次元宇宙論、二重の裏切り(堕天使)、複雑な二元論など。
子どもより熱中する大人
ヒーロー作品の出演者を追いかける母親。
ヒロイン作品(「プリキュア」)を真剣に視聴してイベントに参加する父親。
世代交代する番組キャストとスタッフ
:自分たちが楽しめる番組作り
それでも番組の内容に批判する大人・・・。
子どもは下品な表現がすき
クレヨンしんちゃんは「子どもに見せたくない作品」の典型として紹介されることが多い。
→クレヨンしんちゃんでは下ネタが多い。
子どもは大人が下品だと思う表現が赤裸々に登場する。それがこの作品に対する大人の評価の低さの原因
→なぜ下品な表現を子どもに隠したがるのか?
下品な表現は大人が占有しておきたい領域。子どもには知られたくない領域の話。
どうして4人家族?
野原家は4人家族
野原しんのすけ(幼稚園児5歳)、野原ひまわり(0歳)
野原みさえ(専業主婦29歳)、野原ひろし(サラリーマン35歳)
現在、世帯あたりの平均人数は3人を下回り、世帯当たりの子どもの数は2人をきっている。関東圏に居住し、子どもが2人いる世帯で妻が専用主婦でいられるのか? だいたい、なぜ子どもが2人なのか? 野比家は1人なのに。
映画の中の家族構成は何を意味しているのか?
知的触媒として扱う方法を試す
社会学的想像力
今回は、レジメのみの記載です。授業のなかでやりとりした内容までは公表しません。
知的触媒として扱う方法
この方法は批評的方法の一部をより発展的に用いたもの。たとえば次のような点に注目する。?観客に与える思想的影響(映画から生きがいが得られる、考え方が変わるなど)。?観客への行動の影響(将来設計が変わる、生き方が変わるなど)。?映画から受けた知識や認識をきっかけにして、深く思索(思惟)すること。
社会学的想像力を発揮して映画から様々なことを連想する。
課題作品
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦』
公開日:2002年4月20日
『クレヨンしんちゃん』劇場映画シリーズ10周年記念作品
監督:原恵一(アニメ版『カラフル』)、原作:臼井儀人
作画監督:原勝徳、大森孝敏、間々田益男
キャラクターデザイン:末吉裕一郎
美術監督:古賀徹、清水としゆき
撮影監督:梅田俊之
興行収入13億円
子ども向け作品?
子ども向け映画作品は幼稚で大人の視聴に堪えない?
→子ども向けといわれる劇場作品(『ドラえもん』、『ポケモン』、『名探偵コナン』、『プリキュア』など)は子どもだけが楽しめるもので、大人は感動できないのか?
子ども向け作品?
テレビ放送作品とは異なり、子ども向けの作品は子どもだけでは鑑賞しない。
→子ども向けの劇場作品は大人が同行する。
→大人も楽しめる作品、感動できる作品であるとわかれば大人は子どもを連れて映画を鑑賞する。
観客動員数を動員するためには完全な子ども向けの内容にしない。
→子ども向けの劇場映画をなめんなよ!
子ども向け作品?
それでは子ども向けの作品を大人が観て「楽しい」と感じるのは、作品が大人の視聴に耐えるだけのストーリーになっているから「だけ」なのか?
→子ども向け作品から「卒業しない」大人
→アニメや漫画に慣れた大人
☆子ども向け作品を面白いと感じる大人が増えた!
シリーズから独立した作品
『ドラえもん』『ポケモン』『クレヨンしんちゃん』などの作品は毎週テレビ放送されているシリーズ作品。劇場映画はテレビ放送されたシリーズからは独立したストーリーになっている。
→劇場映画しか見ない観客への配慮
→シリーズの統一性がくずれる
→しかしながら劇場映画もシリーズの影響を受けている
☆課題作品は独立した作品としての完成度が高い
→クレヨンしんちゃんの世界から切り離された実写映画に!
→しんちゃん一家とは異なった設定にしても違和感がない
なぜ戦国時代が舞台に?
「歴史ブーム」との関連は?
→NHKの大河「篤姫」(2008)、「天地人」(2009)
→戦国BASARAシリーズ(PS2:2005,2006,wii:2010)
→信長の野望シリーズ(1986,1988,1990,1992,1994,1997,1999,2001,2002,2003,2005,2009)
→「三國無双」(1997,PS)
→真・三國無双シリーズ(2000,2001,2003,2005,2007,2011・・)
→戦国無双シリーズ(2004,2006,2009)
☆現在の歴史ブームとは直接関係はない。しかし歴史ブームの一翼を担うことに・・・実写版
なぜ戦国時代が舞台に?
戦国時代は日本の歴史の中でもっとも自由な時代。
→農民が武士になれた時代
→身分が崩れた時代(身分の差をこえた愛が可能?)
→個人の才能を発揮できた時代
社会史という学問領域が発達し、これまでの伝統的な歴史では登場しなかった人物の情報が発掘されるようになった。また庶民の生活が具体的な形で明らかになった。
→課題作品では戦国時代の風景や生活が正確に描写されている。
なぜ戦国時代なのか?
子どもたちはちゃんばら好き?
→冒頭の幼稚園の場面で子どもたちがちゃんばら遊びをしているシーンがある。子どもたちは現在でもけっこうチャンバラが好き。
日本の歴史の中で、チャンバラのように斬り合うことがあったのは戦国時代だけ。そのほかの時代はチャンバラのような斬り合いのある戦いはなかった。
子どもへの配慮
課題作品は合戦の場面で多くの人間が死ぬ。子ども向けのギャグアニメとしては異例である。しかし戦国時代ではいつでも領土争い、権力争いが生じており、医療スキルも低く、医者もいない。食料も不足していて誰かが死ぬということが当たり前の時代。だから死が登場するのは当然である。
しかし、「流血場面はない」「身体が切断される場面はない」
→他の子ども向け作品でも同じ。
→死が全く描かれていない作品もある。
『もののけ姫』(1997年公開)
→流血シーン、身体の切断シーンがある
子どもへの配慮
「平成仮面ライダーシリーズ」(2000年?)は人間が無惨に殺されていくシーンが多い。殺人がゲームになっている。
→子ども向け番組の枠組み(テレビ朝日日曜8時?)を利用しながら、子どもだけを対象にしたのではなく、自分たちが納得できる作品を作った? :子ども向け作品の枠組みを壊した??
→子ども向け作品の変化?
→「仮面ライダーシリーズ」はイケメン俳優輩出作品へ
(子どもの母親がファンに・・・)
ヒーロー・ヒロイン作品
大きく変化したシリーズ作品。劇場作品「ウルトラマンティガ THW FINAL ODDYSSEY」(2000年公開,TVシリーズは1996?)では、主人公がキスをして結婚した(ウルトラマン史上初)。劇場版「大決戦!超ウルトラ8兄弟」(2008年公開)では、アラフォー(現在子どもの親世代)向けのスポットCMが制作された。
どちらも従来の子ども作品にはなかった要素が多く含まれている。多次元宇宙論、二重の裏切り(堕天使)、複雑な二元論など。
子どもより熱中する大人
ヒーロー作品の出演者を追いかける母親。
ヒロイン作品(「プリキュア」)を真剣に視聴してイベントに参加する父親。
世代交代する番組キャストとスタッフ
:自分たちが楽しめる番組作り
それでも番組の内容に批判する大人・・・。
子どもは下品な表現がすき
クレヨンしんちゃんは「子どもに見せたくない作品」の典型として紹介されることが多い。
→クレヨンしんちゃんでは下ネタが多い。
子どもは大人が下品だと思う表現が赤裸々に登場する。それがこの作品に対する大人の評価の低さの原因
→なぜ下品な表現を子どもに隠したがるのか?
下品な表現は大人が占有しておきたい領域。子どもには知られたくない領域の話。
どうして4人家族?
野原家は4人家族
野原しんのすけ(幼稚園児5歳)、野原ひまわり(0歳)
野原みさえ(専業主婦29歳)、野原ひろし(サラリーマン35歳)
現在、世帯あたりの平均人数は3人を下回り、世帯当たりの子どもの数は2人をきっている。関東圏に居住し、子どもが2人いる世帯で妻が専用主婦でいられるのか? だいたい、なぜ子どもが2人なのか? 野比家は1人なのに。
映画の中の家族構成は何を意味しているのか?
劇場版 ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY [DVD]
- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- メディア: DVD
2010映画の社会学第12講 知的触媒として扱う方法(1) [映画の社会学]
映画の社会学第12講 知的触媒として扱う方法(1)
今回から新しい方法です。映画をみてそれを触媒にして想像力を発揮し、いろいろなことを考えるという方法です。簡単そうで、実は難しいかもしれません。
ということで悩んで末に選択した課題作品は以下の通りです。
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦」(2002年公開)
この作品、結構、いろいろな賞を受賞しています。
2002年度文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞
2002年度日本インターネット映画大賞・日本映画作品賞
2002年 第7回アニメーション神戸個人賞
第57回毎日映画コンクール・アニメーション映画賞
東京国際アニメフェア2003・劇場部門優秀作品賞
東京国際アニメフェア2003・個人賞部門監督賞
第22回藤本賞
そして実写映画としてリメイクされています。
「BALLAD 名もなき恋のうた」(2009年公開)
監督はあの山崎貴。ヤマトとあわせて、この冬に鑑賞しておいてください。
今回から新しい方法です。映画をみてそれを触媒にして想像力を発揮し、いろいろなことを考えるという方法です。簡単そうで、実は難しいかもしれません。
ということで悩んで末に選択した課題作品は以下の通りです。
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦」(2002年公開)
この作品、結構、いろいろな賞を受賞しています。
2002年度文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞
2002年度日本インターネット映画大賞・日本映画作品賞
2002年 第7回アニメーション神戸個人賞
第57回毎日映画コンクール・アニメーション映画賞
東京国際アニメフェア2003・劇場部門優秀作品賞
東京国際アニメフェア2003・個人賞部門監督賞
第22回藤本賞
そして実写映画としてリメイクされています。
「BALLAD 名もなき恋のうた」(2009年公開)
監督はあの山崎貴。ヤマトとあわせて、この冬に鑑賞しておいてください。
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 [DVD]
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BALLAD 名もなき恋のうた スペシャル・コレクターズ・エディション 【初回限定生産】 [DVD]
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2010映画の社会学第10,11講 批評的方法(5) [映画の社会学]
映画の社会学 第10,11講 批評的方法(5,6)
批評的方法の実践
批評的方法を実践する、ということで第2回目のリポートです。
課題作品:
『ウォーク・トゥ・リメンバー』(A Walk to Remenber)2002
監督:アダム・シャンクマン
製作:デニーズ・ディ・ノヴィ
出演:マンディ・ムーア、シェーン・ウエストほか
原作:ニコラス・スパークス『奇跡を信じて』
他の作品:『きみに読む物語』、『メッセージ・イン・ア・ボトル』、『最後の初恋』など
課題:課題:「原作からの設定変更によって何が表現されたのか」
以下の2点について論述しましょう。
<問題1>
原作では1999年57歳の主人公が17歳の時の自分を回顧するという構成です(現在の自分>過去の自分>現在の自分)。主人公が17歳の時・・・1950年代から60年代にかけてが舞台に設定されています。
映画では1990年代が舞台になっている。
この変更による効果は何?
<問題2>
原作:主人公ランドンの父親は30年間下院議員を務める街の有力者。1年うち半年以上はワシントンにいて自宅にはいません。しかし親子関係は悪くなく、「非行の原因は父親の不在ではない」と発言しています。
映画:ランドンの父親は医者で数年前に離婚して別の女性と結婚しています。ランドンと父親との関係は非常に悪いと描かれています。
この設定変更によってどういうメッセージが描かれるのか?
期限:2010年12月22日(水曜日)午後17時まで
提出先: 電子メールあるいはMICCS
電子メールでの提出先と質問先については授業中に説明してます。出席していない人は、必死になって探すように。提出されないと「失格」です。
<注意事項>
小論文にすること。
感想文や作文ではない。
箇条書きやメモ書きの様式ではなく、文章で表現すること。
分量:800字以上
メールで提出する場合は提出先を間違えないように
MICCSあるいは電子メールを利用すること。
電子メールの場合、「受理確認メール」(自動応答)を確認すること。ドメイン指定に注意!
ケータイメールを許可する。
批評的方法の実践
批評的方法を実践する、ということで第2回目のリポートです。
課題作品:
『ウォーク・トゥ・リメンバー』(A Walk to Remenber)2002
監督:アダム・シャンクマン
製作:デニーズ・ディ・ノヴィ
出演:マンディ・ムーア、シェーン・ウエストほか
原作:ニコラス・スパークス『奇跡を信じて』
他の作品:『きみに読む物語』、『メッセージ・イン・ア・ボトル』、『最後の初恋』など
課題:課題:「原作からの設定変更によって何が表現されたのか」
以下の2点について論述しましょう。
<問題1>
原作では1999年57歳の主人公が17歳の時の自分を回顧するという構成です(現在の自分>過去の自分>現在の自分)。主人公が17歳の時・・・1950年代から60年代にかけてが舞台に設定されています。
映画では1990年代が舞台になっている。
この変更による効果は何?
<問題2>
原作:主人公ランドンの父親は30年間下院議員を務める街の有力者。1年うち半年以上はワシントンにいて自宅にはいません。しかし親子関係は悪くなく、「非行の原因は父親の不在ではない」と発言しています。
映画:ランドンの父親は医者で数年前に離婚して別の女性と結婚しています。ランドンと父親との関係は非常に悪いと描かれています。
この設定変更によってどういうメッセージが描かれるのか?
期限:2010年12月22日(水曜日)午後17時まで
提出先: 電子メールあるいはMICCS
電子メールでの提出先と質問先については授業中に説明してます。出席していない人は、必死になって探すように。提出されないと「失格」です。
<注意事項>
小論文にすること。
感想文や作文ではない。
箇条書きやメモ書きの様式ではなく、文章で表現すること。
分量:800字以上
メールで提出する場合は提出先を間違えないように
MICCSあるいは電子メールを利用すること。
電子メールの場合、「受理確認メール」(自動応答)を確認すること。ドメイン指定に注意!
ケータイメールを許可する。
2010映画の社会学第9講 批評的方法(4) [映画の社会学]
映画の社会学 第9講 批評的方法(4)
批評的方法のポイント
今回は批評的方法によって映画分析を行う時の「批評のポイント」について紹介したいと思います。すでに述べたように批評的方法は対象となる一つの作品をじっくりと鑑賞し、その対象作品について独自の批評を行います。その意味では批評の内容は個々の作品によって別々の批評になります。しかし批評に際してはいくつの共通するポイントがあるので、今回はそのポイントについて説明したいと思います。映画を批評的方法によって分析する時には、ここで紹介するポイントをきっかけにしていただきたいと思います。
一般に映画にはタイトルを表示するタイトルバックと呼ばれるシーンとオープニングと呼ばれるシーンがあります。
少し一般的なオープニングよりも短いですが、行定勲監督の『クローズド・ノート』のオープニングを観てみましょう。
一般的なオープニングが「タイトルの表示」、「メインキャストの名前」(ときには監督の名前)などが独自の映像の上に重ねて表示されます。オープニングの長さは監督によって異なりますが、一般的に次のような効果があるようです。オープニングは「これから映画が始まるぞ~」というわくわく感を感じさせる「部分」(時間)。エンディングと合わせて「始まり」と「終わり」を明確に示す「フレーム」の役割を担っています。
さてこのオープニングですが、本当に映画に必要な宇部分なのでしょうか。
オープニングの重要性については監督によって考え方が異なります。また作品によっては重要性がかわります。まずは次の作品のオープニングを観てみましょう。
ジェイ・ラッセル監督の『マイ・ドッグ・スキップ』(2000)
出演:フランキー・ミューニース、ケビン・ベーコン、ダイアン・レイン
この監督の他の作品:
『ウォーター・ホース』(2007)
『炎のメモリアル』(2004)
ジェイ・ラッセル監督はオープニングには一定の役割があると考えています。この作品ではジェイ・ラッセル監督は、オープニングを本編の予告だと考えています。だからこの作品のオープニングには主人公に関係するアイテムや風景、主人公の部屋が映されます。こうして本編の雰囲気を事前に観客に示し、緩やかに映画の世界へ導入していきます。
次に矢口史靖(やぐちしのぶ)監督の『ハッピーフライト』(2008)を観てみたいと思います。
出演:田辺誠二、時任三郎、綾瀬はるか
この作品ではオープニングは本編の一部だと考えられています。だから本編に至るプロセス(予告を含む)、本編の導入部分が映し出されます。そして1つのシーンが終わったところでタイトルバックとなります。このような構成では一応、オープニングが重要だとは考えられているのですが、一般的な手法とは異なった効果があります。この手法の効果については次の手法と同じになるので次の手法について説明しましょう。
それでは最後のパターンを紹介しましょう。まずは二つの作品を鑑賞します。ジェームス・キャメロン監督の『アバター』と行定勲監督の『世界の中心で、愛をさけぶ』です。
ジェームス・キャメロン監督はオープニングを重要だとは考えていません。だからオープニングをなくしていきなり映画本編が始まっています。行定勲監督もこの作品では一応、タイトルバックは表示しますが、いわゆるオープニングはありません。こうした手法は『Scream』などのホラー映画ではよく用いられる構成です。
オープニングをなくすことによってどのような効果が得られるのでしょうか。
一つには映画全体の時間が短くなるという効果があります。1960年代のアメリカ映画をみればわかるのですが、この時代の映画はオープニングが5分近くありました。エンディングに流されるエンドロールとほぼ同じ内容がオープニングでも映されるからです。この時間が非常に長いです。
二つ目の効果は、観客に予定な待機状態を与えないで、いきなり映画の世界観に引きづり込むことができるということです。これは現在では映画よりもテレビで効果的な手法です。最初に観客の興味を引かないと、チャンネルを変えられてしまいます。映画でも最初から気を引いて逃れられなくしないと、退出されるかもしれません。
最後に観客を驚かせる効果があります。これは2番目の効果と同じですが、単に引きづり込む、というよりはやはりインパクトを与えたい場合に使われます。
【OPをみると・・・】
OPは観客が一番最初に観るシーンです。この最初のシーンをどのように表現するか、ということで映画の中の雰囲気、監督の考え方、映画制作に対する意気込みが読み取れます。
だから映画の最初の場面でうだうだ話をしていると、監督の意図を受け止められません。最初の部分から映画の分析は始まっているのです。
【映画の構成】
では次に映画の構成について考えてみましょう。特にここでは時間構成について、過去の描き方について考えてみたいと思います。
映画のでは過去の出来事をどのように表現するのでしょうか。一般的には過去の物語は過去の出来事として描かれます。このように描くと、実話であろうとフィクションであろうと、「歴史的な出来事」として表現されます。さて歴史的な出来事とは。普通、自分とはあまり関係がない出来事として受け取られます。自分とは関係がないことですから、少し客観的な対象となります。
客観的というのは、それがたとえ実話であっても自分とは距離感がある出来事として受け取られるということです。
『ラストサムライ』(2003)、『遙かなる大地へ』(1992)などをみるとそういう感じがします。
過去の物語を現在に生きる人の回想として描く場合があります。
この場合、観客は目の前で語る人が体験してきたこととして過去の出来事を観ることになります。多くの人が同じようなことを語る、客観的な話ではなく、個人の「語り」という形式です。この構成だと、たんに過去の出来事を描くよりも「リアリティ」が感じられます。もちろん回想といってもいろいろな描き方があります。
『マイ・ドッグ・スキップ』では一人の男性の過去が描かれるのですが、その男性の「ナレーション」という形式で描かれています。また少年の体験を描いた作品として秀逸な『スタンド・バイ・ミー』(1986)では、回想する主人公が、自分の体験を小説として描いている、という形式でした。
こうした表現でも十分に「リアリティ」を感じさせるのですが、それ以上にユニークな表現方法は『タイタニック』で用いられた形式です。
『タイタニック』ではおばあさんがリビングの暖炉の前で、孫たちに話をするように、沈没の体験を若者たちに話しています。この方が「リアリティ」だけでなく、「親しみ」も感じさせます。
行定勲監督『世界の中心で、愛をさけぶ』では、もっとユニークな手法で過去を描き出しました。
『世界の中心で、愛をさけぶ』では「アイテム」によって現在と過去が結びつけられました。この作品では発売当初から若者たちの生活に密接に関係したアイテム、ソニーのWALKMANとテープが使われました。このアイテムは原作には登場しません。テープに吹き込まれた声は誰かに作られたものではありません。過去を忠実に描く「証拠」です。登場人物の「記憶」でもありません。このように客観的な証拠を用いて、しかも個人の体験を描き出しました。
アイテムを有効に利用すれば、現在と過去をシームレスに接続することができます。では次にいくつかのアイテムについて考えてみましょう。
【アイテムの利用】
小説では描き入れない表現を映画ではアイテムを使って描くことができます。たとえば『クローズド・ノート』のラストシーン。
『クローズド・ノート』のラストシーンでは、原作には登場しない「紙飛行機」というアイテムが登場しました。実はこのアイテム、オープニングにも登場しています。
紙飛行機というアイテムを使うことによって登場人物たちが感じている「自由」や「解放」という感情が演出されます。同時に観客には一つの物語が「完結した」感じが与えられます。
このようにアイテムによって言葉や文字では表現できない「感情」を演出することができます。たとえば次の作品でもアイテムが感情表現に利用されています。
『いま、会いにゆきます』(2004)
高校卒業時にタクミからミオに渡されたボールペン。原作ではさほどウエイトが置かれていなかったが、映画では特別なアイテムとして利用された。ペン:人が日常的に使っているモノ
『Little DJ 小さな恋の物語』(2007)
父親からもらったレコードを主人公が床に投げつける。
→少年の気持ちを表現するためのアイテム
【登場人物の設定】
映画では原作にはない登場人物を新たに加えたり、原作とは異なった設定に変更する場合があります。これはその映画をどのような作品に仕上げたいのか、あるいは対象となる観客は誰なのか、あるいは商業的な目的は何なのか、などという要素と関係しています。
たとえば西谷弘監督の『県庁の星』(2006)では、原作では中年であった女性が映画では若い女性(柴咲コウ)に変更されました。これによって
→店は若いパートタイム女性によって支えられる
(ベテラン社員のなさけさなの演出)
→主人公(織田裕二)との「恋」が表現される
(いわゆるデートムービーとなる。観客の幅が広がる)
という効果が見込まれるからです。
あるいは現在公開中の『Space Battleship ヤマト』では、二人の登場人物の設定が変更されています。一人は佐渡先生、もう一人は森雪です。これも変更することによってさまざまな演出効果があります。
現在はあまり意図的に製作されていないジャンルですが・・・アイドルを売り出すために製作される「アイドル映画」というジャンルがあります
『時をかける少女』(1983)、『ねらわれた学園』(1981)、『セーラー服と機関銃』(1981)といった角川映画はその典型です。こうした作品では、
→アイドルの魅力が引き立つような演出
→出演者の演技はあまり問題にされない
という特徴があります。ご覧になればわかりますが、下手でべたな演技がそのまま採用されています。むろんこの演出は監督によって違います。個人的には・・・。
1970年代から80年代はアイドル全盛時代でした。テレビには連日新しいアイドルが登場し、さまざまなプロダクションが所属のアイドルをどのように売り出すのか、さまざまな手段が試されました。アイドル映画もその一つです。このように各国でアイドル映画が製作されていました。
さて今回は特にいくつかのポイントに絞って紹介しました。しかし批評的方法はこれだけではありません。自分なりに作品をみて分析してみてください。ただし一番大切なことは、その作品自体から考えるということ、それからその作品の背景にある社会的な影響について考えてみることです。これは実践してみなければよくわからないので、どんどんトライしましょう。
批評的方法のポイント
今回は批評的方法によって映画分析を行う時の「批評のポイント」について紹介したいと思います。すでに述べたように批評的方法は対象となる一つの作品をじっくりと鑑賞し、その対象作品について独自の批評を行います。その意味では批評の内容は個々の作品によって別々の批評になります。しかし批評に際してはいくつの共通するポイントがあるので、今回はそのポイントについて説明したいと思います。映画を批評的方法によって分析する時には、ここで紹介するポイントをきっかけにしていただきたいと思います。
一般に映画にはタイトルを表示するタイトルバックと呼ばれるシーンとオープニングと呼ばれるシーンがあります。
少し一般的なオープニングよりも短いですが、行定勲監督の『クローズド・ノート』のオープニングを観てみましょう。
一般的なオープニングが「タイトルの表示」、「メインキャストの名前」(ときには監督の名前)などが独自の映像の上に重ねて表示されます。オープニングの長さは監督によって異なりますが、一般的に次のような効果があるようです。オープニングは「これから映画が始まるぞ~」というわくわく感を感じさせる「部分」(時間)。エンディングと合わせて「始まり」と「終わり」を明確に示す「フレーム」の役割を担っています。
さてこのオープニングですが、本当に映画に必要な宇部分なのでしょうか。
オープニングの重要性については監督によって考え方が異なります。また作品によっては重要性がかわります。まずは次の作品のオープニングを観てみましょう。
ジェイ・ラッセル監督の『マイ・ドッグ・スキップ』(2000)
出演:フランキー・ミューニース、ケビン・ベーコン、ダイアン・レイン
この監督の他の作品:
『ウォーター・ホース』(2007)
『炎のメモリアル』(2004)
ジェイ・ラッセル監督はオープニングには一定の役割があると考えています。この作品ではジェイ・ラッセル監督は、オープニングを本編の予告だと考えています。だからこの作品のオープニングには主人公に関係するアイテムや風景、主人公の部屋が映されます。こうして本編の雰囲気を事前に観客に示し、緩やかに映画の世界へ導入していきます。
次に矢口史靖(やぐちしのぶ)監督の『ハッピーフライト』(2008)を観てみたいと思います。
出演:田辺誠二、時任三郎、綾瀬はるか
この作品ではオープニングは本編の一部だと考えられています。だから本編に至るプロセス(予告を含む)、本編の導入部分が映し出されます。そして1つのシーンが終わったところでタイトルバックとなります。このような構成では一応、オープニングが重要だとは考えられているのですが、一般的な手法とは異なった効果があります。この手法の効果については次の手法と同じになるので次の手法について説明しましょう。
それでは最後のパターンを紹介しましょう。まずは二つの作品を鑑賞します。ジェームス・キャメロン監督の『アバター』と行定勲監督の『世界の中心で、愛をさけぶ』です。
ジェームス・キャメロン監督はオープニングを重要だとは考えていません。だからオープニングをなくしていきなり映画本編が始まっています。行定勲監督もこの作品では一応、タイトルバックは表示しますが、いわゆるオープニングはありません。こうした手法は『Scream』などのホラー映画ではよく用いられる構成です。
オープニングをなくすことによってどのような効果が得られるのでしょうか。
一つには映画全体の時間が短くなるという効果があります。1960年代のアメリカ映画をみればわかるのですが、この時代の映画はオープニングが5分近くありました。エンディングに流されるエンドロールとほぼ同じ内容がオープニングでも映されるからです。この時間が非常に長いです。
二つ目の効果は、観客に予定な待機状態を与えないで、いきなり映画の世界観に引きづり込むことができるということです。これは現在では映画よりもテレビで効果的な手法です。最初に観客の興味を引かないと、チャンネルを変えられてしまいます。映画でも最初から気を引いて逃れられなくしないと、退出されるかもしれません。
最後に観客を驚かせる効果があります。これは2番目の効果と同じですが、単に引きづり込む、というよりはやはりインパクトを与えたい場合に使われます。
【OPをみると・・・】
OPは観客が一番最初に観るシーンです。この最初のシーンをどのように表現するか、ということで映画の中の雰囲気、監督の考え方、映画制作に対する意気込みが読み取れます。
だから映画の最初の場面でうだうだ話をしていると、監督の意図を受け止められません。最初の部分から映画の分析は始まっているのです。
【映画の構成】
では次に映画の構成について考えてみましょう。特にここでは時間構成について、過去の描き方について考えてみたいと思います。
映画のでは過去の出来事をどのように表現するのでしょうか。一般的には過去の物語は過去の出来事として描かれます。このように描くと、実話であろうとフィクションであろうと、「歴史的な出来事」として表現されます。さて歴史的な出来事とは。普通、自分とはあまり関係がない出来事として受け取られます。自分とは関係がないことですから、少し客観的な対象となります。
客観的というのは、それがたとえ実話であっても自分とは距離感がある出来事として受け取られるということです。
『ラストサムライ』(2003)、『遙かなる大地へ』(1992)などをみるとそういう感じがします。
過去の物語を現在に生きる人の回想として描く場合があります。
この場合、観客は目の前で語る人が体験してきたこととして過去の出来事を観ることになります。多くの人が同じようなことを語る、客観的な話ではなく、個人の「語り」という形式です。この構成だと、たんに過去の出来事を描くよりも「リアリティ」が感じられます。もちろん回想といってもいろいろな描き方があります。
『マイ・ドッグ・スキップ』では一人の男性の過去が描かれるのですが、その男性の「ナレーション」という形式で描かれています。また少年の体験を描いた作品として秀逸な『スタンド・バイ・ミー』(1986)では、回想する主人公が、自分の体験を小説として描いている、という形式でした。
こうした表現でも十分に「リアリティ」を感じさせるのですが、それ以上にユニークな表現方法は『タイタニック』で用いられた形式です。
『タイタニック』ではおばあさんがリビングの暖炉の前で、孫たちに話をするように、沈没の体験を若者たちに話しています。この方が「リアリティ」だけでなく、「親しみ」も感じさせます。
行定勲監督『世界の中心で、愛をさけぶ』では、もっとユニークな手法で過去を描き出しました。
『世界の中心で、愛をさけぶ』では「アイテム」によって現在と過去が結びつけられました。この作品では発売当初から若者たちの生活に密接に関係したアイテム、ソニーのWALKMANとテープが使われました。このアイテムは原作には登場しません。テープに吹き込まれた声は誰かに作られたものではありません。過去を忠実に描く「証拠」です。登場人物の「記憶」でもありません。このように客観的な証拠を用いて、しかも個人の体験を描き出しました。
アイテムを有効に利用すれば、現在と過去をシームレスに接続することができます。では次にいくつかのアイテムについて考えてみましょう。
【アイテムの利用】
小説では描き入れない表現を映画ではアイテムを使って描くことができます。たとえば『クローズド・ノート』のラストシーン。
『クローズド・ノート』のラストシーンでは、原作には登場しない「紙飛行機」というアイテムが登場しました。実はこのアイテム、オープニングにも登場しています。
紙飛行機というアイテムを使うことによって登場人物たちが感じている「自由」や「解放」という感情が演出されます。同時に観客には一つの物語が「完結した」感じが与えられます。
このようにアイテムによって言葉や文字では表現できない「感情」を演出することができます。たとえば次の作品でもアイテムが感情表現に利用されています。
『いま、会いにゆきます』(2004)
高校卒業時にタクミからミオに渡されたボールペン。原作ではさほどウエイトが置かれていなかったが、映画では特別なアイテムとして利用された。ペン:人が日常的に使っているモノ
『Little DJ 小さな恋の物語』(2007)
父親からもらったレコードを主人公が床に投げつける。
→少年の気持ちを表現するためのアイテム
【登場人物の設定】
映画では原作にはない登場人物を新たに加えたり、原作とは異なった設定に変更する場合があります。これはその映画をどのような作品に仕上げたいのか、あるいは対象となる観客は誰なのか、あるいは商業的な目的は何なのか、などという要素と関係しています。
たとえば西谷弘監督の『県庁の星』(2006)では、原作では中年であった女性が映画では若い女性(柴咲コウ)に変更されました。これによって
→店は若いパートタイム女性によって支えられる
(ベテラン社員のなさけさなの演出)
→主人公(織田裕二)との「恋」が表現される
(いわゆるデートムービーとなる。観客の幅が広がる)
という効果が見込まれるからです。
あるいは現在公開中の『Space Battleship ヤマト』では、二人の登場人物の設定が変更されています。一人は佐渡先生、もう一人は森雪です。これも変更することによってさまざまな演出効果があります。
現在はあまり意図的に製作されていないジャンルですが・・・アイドルを売り出すために製作される「アイドル映画」というジャンルがあります
『時をかける少女』(1983)、『ねらわれた学園』(1981)、『セーラー服と機関銃』(1981)といった角川映画はその典型です。こうした作品では、
→アイドルの魅力が引き立つような演出
→出演者の演技はあまり問題にされない
という特徴があります。ご覧になればわかりますが、下手でべたな演技がそのまま採用されています。むろんこの演出は監督によって違います。個人的には・・・。
1970年代から80年代はアイドル全盛時代でした。テレビには連日新しいアイドルが登場し、さまざまなプロダクションが所属のアイドルをどのように売り出すのか、さまざまな手段が試されました。アイドル映画もその一つです。このように各国でアイドル映画が製作されていました。
さて今回は特にいくつかのポイントに絞って紹介しました。しかし批評的方法はこれだけではありません。自分なりに作品をみて分析してみてください。ただし一番大切なことは、その作品自体から考えるということ、それからその作品の背景にある社会的な影響について考えてみることです。これは実践してみなければよくわからないので、どんどんトライしましょう。
世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション [DVD]
- 出版社/メーカー: 東宝
- メディア: DVD
ハッピーフライト スタンダードクラス・エディション [DVD]
- 出版社/メーカー: 東宝
- メディア: DVD
いま、会いにゆきます スタンダード・エディション [DVD]
- 出版社/メーカー: 東宝
- メディア: DVD
ずっと、ずっと、あなたのそばに―映画「いま、会いにゆきます」 澪の物語 (小学館文庫)
- 作者: 若月 かおり
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2004/10
- メディア: 文庫
2010映画の社会学第8講 批評的方法(3) [映画の社会学]
映画の社会学 第8講 批評的方法(3)
原作と映画作品
すでに課題作品を先に鑑賞していますが、まずは新しい方法の紹介です。今回は批評的方法について説明します。批評的方法とは、
個々の作品を対象に研究する。
→映画評論と重なる領域
個々の作品の内容(製作者のメッセージを含む)、制作の手法、撮影された場所、時代や社会の影響、原作(小説、マンガ、ドラマ)との比較など
です。こうした方法であるため、作品をじっくり鑑賞する必要があります。その上でいくつかの定型的な視点から映画について考えていきます。
さて映画は演劇に変わる娯楽として発展してきました。したがって初期の映画作品は演劇、戯曲をもとにして制作されることが多かったようです。もちろん映画独自のオリジナル脚本によって製作された作品もあります。映画全盛期に製作された邦画の多くは何か原作のある作品ではなく、オリジナルの作品がほとんどでした。
しかし映画業界が斜陽期に入るとオリジナル脚本の作品は徐々に減少していきます。それでは映画の原作になる作品とはどのようなジャンルの作品でしょう。以下、リストをあげました。
戯曲(演劇)
小説
マンガ
ゲーム
ドラマ
映画(リメイク・続編)
歌
前述のように初期は最初からセリフによって構築された戯曲を原作とした映画作品が多かったのですが、次第に小説を脚本化した作品が製作されるようになります。そしてさらにマンガ、ゲーム、ドラマ、そして過去に制作された映画を原作とした作品が登場しました。歌の歌詞をモチーフにした作品もあります。たとえば『なごり雪』、『未来予想図』、『22歳の別れ』など。
現在は原作のある映画作品のほうがオリジナル作品よりもはるかに多く製作されています。どうして原作のある作品が製作されるのでしょうか。
原作を読んだ製作者が、作品のすばらしさをより多くの人に知ってもらうために大衆メディアとしての映画を利用するという理由です。次に原作がある作品は映画を制作しながら脚本を書く、あるいは内容を考える、などということがあまりなく、構成が最初からしっかりしています。そのため作品全体のまとまりが最初から構成されることになります。そしてもう一つ、これは最初の理由とも関連しますが、映画の興行収入をあげるだけでなく、原作を含め、タイアップされた商品全体の売り上げを伸ばすことができるからです。
原作の売り上げからあらかじめ収入が「見込める」作品を映画化すれば、失敗するリスクが低くなります。テレビドラマの場合も同じです。視聴率からある程度映画の成功が予想できます。今回課題としてあげた作品には原作があります。筒井康隆の『時をかける少女』です。この作品は1965年から連載がはじまったジュブナイル小説で、1972年にドラマ化されたこともあってすでにベストセラーとなっていました。したがってある程度、収入を確保できるだろうということが予想されています。
さて今回は小説を映画化した作品です。小説と映画のメディアとしての相違については第1回目の講義で説明しましたが、ここでもう一度確認しましょう。
小説:文字を読み、読者が場面を頭の中で想像する
→基本的に文字で情報伝達
→登場人物の心情を文字で表現
映画:観客の五感を刺激する
→基本的には視聴覚に対して
→映画の内容、設備によっては臭覚や触覚も
→登場人物の心情はセリフ、ナレーション、字幕、演技で表現
小説と映画はまったく異なるメディアを利用するため、たとえ同じストーリーでも異なった表現が必要です。だから原作と映画は別の作品だと考えるべきでしょう。まったく別のメディアで表現された作品の善し悪しの比較は無意味です。
ここで原作から映画化する場合のポイントをまとめてみました。原作から映画化する場合、次のようなことが考えられます。
<原作を忠実に再現>
→原作の世界観、雰囲気をできるだけ忠実に表現しようとした映画があります。最近製作される映画の大部分は原作を忠実に再現しようとしています。この場合、メディアの特徴を生かすために演出を加えることがあります。
<原作の枠組みを利用>
→原作を特徴づける枠組みだけを利用して、ストーリーは原作とは異なった内容にする映画があります。
今回の作品で言えば、次のような枠組みです。
男2人女1人の関係。タイムリープという特殊能力を持つ。
<登場人物のキャラだけ利用>
→物語、構成、枠組みなどはオリジナルにして、キャラだけを利用する映画です。
→別々の作品の登場人物を集めた新しい作品を創出することができます。
【トキカケの舞台設定の相違】
<小説>
特に「どこ」という舞台の設定はありません。
<1983年版>
場所を特定する表示はありません。ただしロケ地が監督の故郷である尾道や竹原であることは明確です。とはいっても尾道の特徴である海は映画のなかには撮されていません。
<2010年版>
東京(世田谷西中学校)、横浜(高校と和子の実家がある)。
【舞台設定のポイント】
映画の舞台を決定する要因にはどのようなものがあるだろうか。下にいくつかの要因を挙げてみました。
・原作と同じ場所(原作がある場合)
→実話の場合は、実際の場所。イメージに合わない場合は変更されることもある。
・Film Commissionによる誘致(「西の魔女が死んだ」「The Lord of the Rings」「コスモス」「ラストサムライ」など)
→撮影による直接収入、観光資源の開発
・監督のイメージに合う場所(尾道三部作、「Little DJ」「カーテンコール」「クローズドノート」「青い鳥」など)
・ロケ撮影できない場合はセット撮影
・関東近隣でロケ撮影できればコストを抑えることができる
舞台を決定するには製作上の必然性があるということです。
【時代設定の相違】
<小説>
特に時代設定はなし
<1983年版>
特に時代設定はなし
<2010年版>
現在を2010年、過去を1974年に設定。
時代設定がなければ読者あるいは観客は自分の感覚で時代を設定することになります。とはいえ作品は書かれたあるいは製作された時代の影響を受けるものなので、時が経過すれば「過去の作品」というイメージになることは避けられません。
2010年版の時代設定が2010年(公開年)であるのは、この物語が忘れされた「過去」の出来事ではなく、現在の物語であることを表現するためだと考えられます。もちろん原作にしても1983年版にしても「現在」の物語として作られたのですが、どうしても「過去」の物語であるという印象は避けられなくなりました。
2010年版で主人公がタイムリープする年が1974年である理由は、おそらく昭和に対するノスタルジーであり、もう一つは1974年がオイルショックの次の年だからだと思います。ただ1974年に設定するとあかりの母親、つまり和子の2010年での年齢が54歳になってしまいます。この年齢には少し無理があるような気がします。10年くらいずれているようです。
さてこの時代設定と関連するのが舞台設定です。2010年ではあきらかに東京が舞台になっています。東京が舞台に設定された理由はいくつか考えられます。
コストの問題:
すでに述べたように興収が確保できない、あるいは二次利用での収入が確保できなければ制作費が不足します。東京近辺で撮影すればスタッフにかかる費用が低く抑えられます(宿泊費や食事)。
アニメ版(2006年版)の舞台が東京:
アニメ版では舞台の設定が東京になっていました(明確に東京という言葉が使われたわけではありません)。2010年版ではこのアニメ版の影響を受けていると考えられます。最近の若者層は実写版、アニメ版に関わりなく同じ感覚で映画を楽しみます。だから実写映画がアニメの影響を受けていたとしても何の抵抗もなく受け入れられます。
リアリティを高めるため:
東京や横浜は他の地方よりも一般の人によく知られています。よく知られている場所に設定することによってリアリティを高めることができます。もちろん東京方面の観客数が多いということもあると思います。
★現在のリアリティの高い作品を製作することによって親近感を創出することになったのだと思います。
【物語の構成変更】
原作のOPは理科室の掃除のシーンから始まります。しかし1983年版のOPはスキー教室で和子と吾朗が星を見て話をしているシーンから始まっています。このシーンによって「深町が出現した場面」を観客と和子に明示することになりました。
またこのシーンは白黒で表現されています。これはこのシーンが特別な位置づけになっていることを表します。
1983年版ではOPを変更することによって始まりと終わりが明確になり、物語全体の枠組みが明瞭になりました。同時に登場人物3人の関係が観客に示されることになりました。
【人物設定の変更】
【吾朗の設定の相違】
<小説>
浅倉吾朗
風呂屋の横の浅倉荒物店
ずっぐりむっくりの体型
和子の友人
呼び方も普通
芳山君、朝倉さん
<1983年版>
堀川吾朗
堀川醸造所の息子
和子の幼なじみ
芳山君、「ゴロちゃん」
<2010年版>
浅倉吾朗
浅倉酒店主人(息子)
和子の幼なじみ
和子を好き
「ゴロちゃん」
この設定の相違から2010年版が1983年版の影響を強く受けていることがわかります。
原作で朝倉となっているのが1983年版では堀川になっている理由についてはネットで検索すれば簡単に理由がわかります。
原作からの設定変更によって1983年版では吾朗と和子の関係が大きく変わっていました。
・原作ではたんなる「友人関係」であった和子と吾朗の関係は「幼なじみ」へと変更。
・和子には「ゴロちゃん」と呼ばせて、吾朗に対して親しみがあることを表現させる。
・吾朗が和子に対して「恋」心を抱いているように演出した。
→醤油店の屋上で桶を洗うシーン
→瓦が落ちてくるシーンでの反応
・本来なら結婚することになる(深町のセリフ)ほど強い関係であるように設定が変更された。
こうして原作にはない男女の恋愛の三角関係ができあがります。この設定変更がアニメ版に影響しています。この変更によって吾朗とすり替わった深町と和子の関係が強くなりました。つまり和子の吾朗に対する感情が深町に転移するのです。
この結果、映画のテーマの一つは「恋」になりました。
【深町設定の相違】
<小説>
息子のいない中年夫婦の息子
<1983年版>
深町家の亡くなった息子夫婦の息子
→息子夫婦と孫息子が死亡
この設定変更により、かけがえのない人を失うことの「心情的なショックの大きさ」を表現することになります。これによりこの作品が単なる「恋」、「青春」、「SF」をテーマにしたドラマにとどまらず人間の心情の変化をテーマにしたヒューマンドラマに変化しました。
【和子の設定の相違】
<小説>
和子がその後どうなったかについては描かれていません。
<1983年版>
薬学部に進学し、大学の研究室に残っています。
記憶に残っていない深町の影響が残っていることを示します。つまり深町との記憶が残っていることが表現されます。
このことからも2010年版は小説版でなく、1983年映画版の続編であることがわかります。
☆和子は自立した女性(醤油店の「嫁」ではない)
【人物設定変更のポイント】
映画化に際して原作からの人物設定を変更するのにはいくつかの理由があります。それをリストアップしました。
登場人物の人数変更(大部分は人数を減らす)
→映画は小説のように読み返すことができない
→人数を整理して観客が1回で理解できるように単純化する
→そのためにストーリー上の役割が変更されることがある
群像劇から一人の主人公の作品へ
→小説では複数の登場人物の視点から描かれることがある
→主人公を一人に絞ってストーリーを理解しやすくする
(感情移入が容易になる)
これが原作と比較した場合の批評的方法のポイントです。比較という手法を用いなくても作品自体を批評することもできます。次回はそうしたポイントについて紹介したいと思います。
原作と映画作品
すでに課題作品を先に鑑賞していますが、まずは新しい方法の紹介です。今回は批評的方法について説明します。批評的方法とは、
個々の作品を対象に研究する。
→映画評論と重なる領域
個々の作品の内容(製作者のメッセージを含む)、制作の手法、撮影された場所、時代や社会の影響、原作(小説、マンガ、ドラマ)との比較など
です。こうした方法であるため、作品をじっくり鑑賞する必要があります。その上でいくつかの定型的な視点から映画について考えていきます。
さて映画は演劇に変わる娯楽として発展してきました。したがって初期の映画作品は演劇、戯曲をもとにして制作されることが多かったようです。もちろん映画独自のオリジナル脚本によって製作された作品もあります。映画全盛期に製作された邦画の多くは何か原作のある作品ではなく、オリジナルの作品がほとんどでした。
しかし映画業界が斜陽期に入るとオリジナル脚本の作品は徐々に減少していきます。それでは映画の原作になる作品とはどのようなジャンルの作品でしょう。以下、リストをあげました。
戯曲(演劇)
小説
マンガ
ゲーム
ドラマ
映画(リメイク・続編)
歌
前述のように初期は最初からセリフによって構築された戯曲を原作とした映画作品が多かったのですが、次第に小説を脚本化した作品が製作されるようになります。そしてさらにマンガ、ゲーム、ドラマ、そして過去に制作された映画を原作とした作品が登場しました。歌の歌詞をモチーフにした作品もあります。たとえば『なごり雪』、『未来予想図』、『22歳の別れ』など。
現在は原作のある映画作品のほうがオリジナル作品よりもはるかに多く製作されています。どうして原作のある作品が製作されるのでしょうか。
原作を読んだ製作者が、作品のすばらしさをより多くの人に知ってもらうために大衆メディアとしての映画を利用するという理由です。次に原作がある作品は映画を制作しながら脚本を書く、あるいは内容を考える、などということがあまりなく、構成が最初からしっかりしています。そのため作品全体のまとまりが最初から構成されることになります。そしてもう一つ、これは最初の理由とも関連しますが、映画の興行収入をあげるだけでなく、原作を含め、タイアップされた商品全体の売り上げを伸ばすことができるからです。
原作の売り上げからあらかじめ収入が「見込める」作品を映画化すれば、失敗するリスクが低くなります。テレビドラマの場合も同じです。視聴率からある程度映画の成功が予想できます。今回課題としてあげた作品には原作があります。筒井康隆の『時をかける少女』です。この作品は1965年から連載がはじまったジュブナイル小説で、1972年にドラマ化されたこともあってすでにベストセラーとなっていました。したがってある程度、収入を確保できるだろうということが予想されています。
さて今回は小説を映画化した作品です。小説と映画のメディアとしての相違については第1回目の講義で説明しましたが、ここでもう一度確認しましょう。
小説:文字を読み、読者が場面を頭の中で想像する
→基本的に文字で情報伝達
→登場人物の心情を文字で表現
映画:観客の五感を刺激する
→基本的には視聴覚に対して
→映画の内容、設備によっては臭覚や触覚も
→登場人物の心情はセリフ、ナレーション、字幕、演技で表現
小説と映画はまったく異なるメディアを利用するため、たとえ同じストーリーでも異なった表現が必要です。だから原作と映画は別の作品だと考えるべきでしょう。まったく別のメディアで表現された作品の善し悪しの比較は無意味です。
ここで原作から映画化する場合のポイントをまとめてみました。原作から映画化する場合、次のようなことが考えられます。
<原作を忠実に再現>
→原作の世界観、雰囲気をできるだけ忠実に表現しようとした映画があります。最近製作される映画の大部分は原作を忠実に再現しようとしています。この場合、メディアの特徴を生かすために演出を加えることがあります。
<原作の枠組みを利用>
→原作を特徴づける枠組みだけを利用して、ストーリーは原作とは異なった内容にする映画があります。
今回の作品で言えば、次のような枠組みです。
男2人女1人の関係。タイムリープという特殊能力を持つ。
<登場人物のキャラだけ利用>
→物語、構成、枠組みなどはオリジナルにして、キャラだけを利用する映画です。
→別々の作品の登場人物を集めた新しい作品を創出することができます。
【トキカケの舞台設定の相違】
<小説>
特に「どこ」という舞台の設定はありません。
<1983年版>
場所を特定する表示はありません。ただしロケ地が監督の故郷である尾道や竹原であることは明確です。とはいっても尾道の特徴である海は映画のなかには撮されていません。
<2010年版>
東京(世田谷西中学校)、横浜(高校と和子の実家がある)。
【舞台設定のポイント】
映画の舞台を決定する要因にはどのようなものがあるだろうか。下にいくつかの要因を挙げてみました。
・原作と同じ場所(原作がある場合)
→実話の場合は、実際の場所。イメージに合わない場合は変更されることもある。
・Film Commissionによる誘致(「西の魔女が死んだ」「The Lord of the Rings」「コスモス」「ラストサムライ」など)
→撮影による直接収入、観光資源の開発
・監督のイメージに合う場所(尾道三部作、「Little DJ」「カーテンコール」「クローズドノート」「青い鳥」など)
・ロケ撮影できない場合はセット撮影
・関東近隣でロケ撮影できればコストを抑えることができる
舞台を決定するには製作上の必然性があるということです。
【時代設定の相違】
<小説>
特に時代設定はなし
<1983年版>
特に時代設定はなし
<2010年版>
現在を2010年、過去を1974年に設定。
時代設定がなければ読者あるいは観客は自分の感覚で時代を設定することになります。とはいえ作品は書かれたあるいは製作された時代の影響を受けるものなので、時が経過すれば「過去の作品」というイメージになることは避けられません。
2010年版の時代設定が2010年(公開年)であるのは、この物語が忘れされた「過去」の出来事ではなく、現在の物語であることを表現するためだと考えられます。もちろん原作にしても1983年版にしても「現在」の物語として作られたのですが、どうしても「過去」の物語であるという印象は避けられなくなりました。
2010年版で主人公がタイムリープする年が1974年である理由は、おそらく昭和に対するノスタルジーであり、もう一つは1974年がオイルショックの次の年だからだと思います。ただ1974年に設定するとあかりの母親、つまり和子の2010年での年齢が54歳になってしまいます。この年齢には少し無理があるような気がします。10年くらいずれているようです。
さてこの時代設定と関連するのが舞台設定です。2010年ではあきらかに東京が舞台になっています。東京が舞台に設定された理由はいくつか考えられます。
コストの問題:
すでに述べたように興収が確保できない、あるいは二次利用での収入が確保できなければ制作費が不足します。東京近辺で撮影すればスタッフにかかる費用が低く抑えられます(宿泊費や食事)。
アニメ版(2006年版)の舞台が東京:
アニメ版では舞台の設定が東京になっていました(明確に東京という言葉が使われたわけではありません)。2010年版ではこのアニメ版の影響を受けていると考えられます。最近の若者層は実写版、アニメ版に関わりなく同じ感覚で映画を楽しみます。だから実写映画がアニメの影響を受けていたとしても何の抵抗もなく受け入れられます。
リアリティを高めるため:
東京や横浜は他の地方よりも一般の人によく知られています。よく知られている場所に設定することによってリアリティを高めることができます。もちろん東京方面の観客数が多いということもあると思います。
★現在のリアリティの高い作品を製作することによって親近感を創出することになったのだと思います。
【物語の構成変更】
原作のOPは理科室の掃除のシーンから始まります。しかし1983年版のOPはスキー教室で和子と吾朗が星を見て話をしているシーンから始まっています。このシーンによって「深町が出現した場面」を観客と和子に明示することになりました。
またこのシーンは白黒で表現されています。これはこのシーンが特別な位置づけになっていることを表します。
1983年版ではOPを変更することによって始まりと終わりが明確になり、物語全体の枠組みが明瞭になりました。同時に登場人物3人の関係が観客に示されることになりました。
【人物設定の変更】
【吾朗の設定の相違】
<小説>
浅倉吾朗
風呂屋の横の浅倉荒物店
ずっぐりむっくりの体型
和子の友人
呼び方も普通
芳山君、朝倉さん
<1983年版>
堀川吾朗
堀川醸造所の息子
和子の幼なじみ
芳山君、「ゴロちゃん」
<2010年版>
浅倉吾朗
浅倉酒店主人(息子)
和子の幼なじみ
和子を好き
「ゴロちゃん」
この設定の相違から2010年版が1983年版の影響を強く受けていることがわかります。
原作で朝倉となっているのが1983年版では堀川になっている理由についてはネットで検索すれば簡単に理由がわかります。
原作からの設定変更によって1983年版では吾朗と和子の関係が大きく変わっていました。
・原作ではたんなる「友人関係」であった和子と吾朗の関係は「幼なじみ」へと変更。
・和子には「ゴロちゃん」と呼ばせて、吾朗に対して親しみがあることを表現させる。
・吾朗が和子に対して「恋」心を抱いているように演出した。
→醤油店の屋上で桶を洗うシーン
→瓦が落ちてくるシーンでの反応
・本来なら結婚することになる(深町のセリフ)ほど強い関係であるように設定が変更された。
こうして原作にはない男女の恋愛の三角関係ができあがります。この設定変更がアニメ版に影響しています。この変更によって吾朗とすり替わった深町と和子の関係が強くなりました。つまり和子の吾朗に対する感情が深町に転移するのです。
この結果、映画のテーマの一つは「恋」になりました。
【深町設定の相違】
<小説>
息子のいない中年夫婦の息子
<1983年版>
深町家の亡くなった息子夫婦の息子
→息子夫婦と孫息子が死亡
この設定変更により、かけがえのない人を失うことの「心情的なショックの大きさ」を表現することになります。これによりこの作品が単なる「恋」、「青春」、「SF」をテーマにしたドラマにとどまらず人間の心情の変化をテーマにしたヒューマンドラマに変化しました。
【和子の設定の相違】
<小説>
和子がその後どうなったかについては描かれていません。
<1983年版>
薬学部に進学し、大学の研究室に残っています。
記憶に残っていない深町の影響が残っていることを示します。つまり深町との記憶が残っていることが表現されます。
このことからも2010年版は小説版でなく、1983年映画版の続編であることがわかります。
☆和子は自立した女性(醤油店の「嫁」ではない)
【人物設定変更のポイント】
映画化に際して原作からの人物設定を変更するのにはいくつかの理由があります。それをリストアップしました。
登場人物の人数変更(大部分は人数を減らす)
→映画は小説のように読み返すことができない
→人数を整理して観客が1回で理解できるように単純化する
→そのためにストーリー上の役割が変更されることがある
群像劇から一人の主人公の作品へ
→小説では複数の登場人物の視点から描かれることがある
→主人公を一人に絞ってストーリーを理解しやすくする
(感情移入が容易になる)
これが原作と比較した場合の批評的方法のポイントです。比較という手法を用いなくても作品自体を批評することもできます。次回はそうしたポイントについて紹介したいと思います。
2010映画の社会学第7講 批評的方法(2) [映画の社会学]
2010映画の社会学第6講 批評的方法(1) [映画の社会学]
2010映画の社会学第5講 メディア論的方法(4) [映画の社会学]
映画の社会学 第5講 メディア論的方法(4)
映画産業
映画を映画館で興行することによる収入、つまり入場料金による収入の総計を「興行収入」(興収と省略する)と呼びます。興行収入から興行にかかった費用(設備費や人件費、その他の経費)を差し引いた収入を「配給収入」(配収と省略する)になります。これは一般に興収の50~70%です。配給収入から宣伝費、諸経費、配給手数料(配給収入の15~50%)などを除いた収入が「配分金」と呼ばれ、これが映画を制作した会社に配分され、おもに制作経費にあてられます。製作委員会方式では配分金は製作委員会で分配します。一般的な割合では、配分金は興行収入の25~50%程度になります。
さてそれではここで映画産業を構成する3つの部門について説明します。
<製作部門>
* 作品の企画、内容、スタッフ集め、キャスティング、撮影場所の確保、映画化権の取得など
* 制作資金調達、製作方式の確定(製作委員会方式、ファンド方式など)
* Pre-Production:キャスト・スタッフ確定、ロケ地・スタジオ確保、予算調整、発表
* Production(制作):撮影(クランクイン~クランクアップ)
* Post-Production:編集、試写
<配給部門>
* 権利獲得:劇場上映権、配給権の獲得、興行後収入などについての契約
* 配給計画:公開規模、時期、宣伝予算、収支の策定
* 劇場確保:劇場のブッキング(フリーブッキング方式、ブロックブッキング方式)
* 宣伝広告:さまざまな方式での宣伝の企画・実施(予告、ポスター、前売り、完成試写など)
* その他 :日本語吹き替え、字幕制作、映倫審査など
<興行部門>
* 映画館での上映:
大手映画会社のチェーン系(東宝、松竹など)、単館系・ミニシアター系(個人や中小興行会社の経営:角川、日活など)、シネコン系(ワーナー、TOHOなど)
* 興行会社の実務業務:
入場チケットの販売・もぎり、場内の管理、クレーム処理、関連商品の販売、飲食物の販売、映写など
<制作費のリスク管理とリスクヘッジ>
すでに説明したように、映画業界はテレビの登場、リクリエーションの多様化などによって入場者数が減少しました。人数が減少した分を興行部門では、値上げによって対処し、興行収入を確保(増加)してきました。しかしながら邦画は国内での興行が中心で、たとえ興収が確保されたとしてもハリウッド映画のように莫大な利益を得ることはありません。興行部門、配給部門は興行収入からある程度の利益を得ることができますが、製作部門はすでに制作費を出費していて、興収が配分されると制作費を確保できない可能性があります。そこでこうした制作費のリスクヘッジのために考案されたのが、「製作委員会方式」と「ファンド方式」です。
<製作委員会方式>
* 複数の企業が参加し、制作費を確保。
→「著作権」の共有、配分金の配分、興行後収入の配分
→リスクの分散
* 多様な広告媒体の確保
→出版社、テレビ局、IT関連企業の参加
* メディアミックスの容易化
→関連商品の開発と販売
→ライセンス関連事業の展開
* コンテンツ二次利用の容易化
→複数企業が参加することで二次利用が容易になる
<映画ファンド方式>
* 制作会社が制作費の50-75%確保できれば、残金はファンド(投資信託)から出資される方式→投資家が映画に投資するという方式
* 収益分配:全収入のうち15%を配給手数料として制作会社が受取り、残りは出資比率と契約比率によって配分される。ローリスク・ハイリターンの可能性もある
* ハリウッド映画では一般的な方式。ハリウッド映画には興収が少ない場合に保証する保険もある
<映画ファンドによる作品>
* ジャパン・デジタル・コンテンツ信託株式会社
シネカノン製作『フラガール』(‘06)、『パッチギLOVE&PEACE』(‘07)
* 日本映画ファンド株式会社
『着信アリ2』(‘04)、『戦国自衛隊1549』(‘05)、
* JDC信託は2009年に失敗した。
<コンテンツの二次利用>
1980年代までは、映画産業では映画が上映され、興行収入が確定した時点で、その映画に関わる業務(収益)は完了すると考えられてきました。つまり興収が収入のすべてだったのです。しかし映画業界を圧迫した原因となったテレビの普及、ニューメディアとして注目されたビデオの普及によって、自宅で映画を鑑賞するというライフスタイルが一般化することによって映画業界には大きな転機が訪れます。
映画館で映画を公開した後の映画の再利用です。これを「コンテンツの二次利用」と呼びます。現在は映画を撮影する前の製作段階ですでに映画の二次利用が計画されるようになっています。つまり興収によって回収できなかった制作費をコンテンツの二次利用によって回収するシステムや、興収以外の収入源を確保する計画が行われているのです。作品によっては最初から映画館での興行を実行せず、オリジナルDVDだけを製作したり、特定のケーブルテレビ局や衛星放送局だけでの放映を行います。
一般的なコンテンツ利用の流れとしては、次のようなものがあります。
劇場公開
↓
パッケージ販売(ビデオやDVD、ブルーレイ)
↓
CS放送、CATV放送
↓
地上波テレビ放送
↓
ネット配信
こうしたコンテンツ自体の二次利用だけでなく、コンテンツを利用した別作品の販売によって収入を得る場合もあります。たとえば「ゲーム化」、「小説・マンガ化」、「グッズ」などです。
さて現在映画には次のような権利(ライセンス)が設定されています。
劇場上演権、非劇場上映権、公共ビデオ権、ホームビデオ権、商業ビデオ権、地上波放送権、CATV権、衛星放送権、PPV権、VOD権、IP放送権、CCTV権、付随的権利
映画はこうした権利を販売して収益を得る「権利ビジネス」です。この権利をどのように扱うかによって商業戦略が変化します。
<ポケモン>
さて今回題材に取り上げた「ポケモン」は映画を中心としたビジネスモデルではなく、ゲームソフトを中心として企画されたメディアミックスモデルです。そしてメディアミックスモデルを日本で最初に本格化したのは、ポケモンと同じ子ども向けのコンテンツでした。いわゆる大人向けのコンテンツではこうしたメディアミックスモデルは考えられていませんでした。
ポケットモンスターは1996年ゲームボーイ用のゲームソフト、同時にポケモンカードゲームとして発売されました。当初の売れ行きは爆発的とは言えませんでした。ところが公式には150匹しかいないはずだけれども151番目の「幻のポケモン」がいるらしい、という都市伝説が広がり、発売後1年後もトップセールスを記録します。実はこれはゲームソフトのイースターエッグで、通常では登場しないポケモンでした(「ミュウ」)。それが偶然発見されてしまいました。この他にも開発者はいろいろなイースターエッグを仕込んでいて、それがゲームソフトの売り上げに影響しました。
この人気を得てゲームを原作としたTVアニメが制作されることになります。ちなみにゲームを原作にした映画作品はけっこうおおく制作されています。これについてはまた別の機会に詳しく説明したいと思います。
さてTVアニメ放映当初、子どもたちの間ではポケモンはけっこう知られていましたが、世間的にあまり知られていない存在でした。しかしながらある事件をきっかけにポケモンは世の中の多くの人、特に子どもの親世代に知られるようになります。いわゆる「ポケモンショック」です。
番組を観ていた一部の子どもたちに光過敏性発作が生じました。その数があまりに多く、ポケモンの放送は中断し、番組打ち切りの話が出ていました。この危機的状況が番組の人気に拍車をかけることになり、この事件からポケモンの躍進が始まります。
こうしてポケモンはゲームソフトを中心にしてTVアニメ、劇場映画、カードゲーム、マンガ、映像ソフト、グッズなどのメディアと連携した一大カンパニーを構成します。現在はポケモンの画像をライセンス提供するライセンス事業も大きくなり、全世界規模で業務展開されています。
映画と各コンテンツの関係を観ると、映画はストーリーとしては独立しています。今回題材としてあげた作品については実はTVアニメの内容と関係するストーリーだったのですが、ポケモンショックの影響で映画のほうがTVアニメの内容を先取りする形になりました。そのため第3作目からはTVアニメには影響のないストーリーが作られるようになっています。しかしながら映画に登場するポケモンはゲームソフトと密接な関係をもつように設定され、さらに大枠としてはTVアニメとも世界観を共有します。また映画ではTVアニメでは扱えないような壮大で抽象的なテーマをじっくりと取り上げ、子ども向けの作品をこえた内容になっています。
こうしてポケモンはすべてのメディアが連携して全体の売り上げに貢献する仕組みになりました。後はポケモン年表を見て考えてみてください。
参照
それでは第1回目のリポートの案内をします。課題は次の通り。
「映画館で観る映画と自宅で観る映画の相違点と共通点」
締め切り:2010年11月11日(木曜日)授業開始時間まで
提出方法:MICCSあるいは電子メール
電子メールでの提出先は講義中に紹介したアドレス
注意事項:
小論文にすること。感想文や作文ではない。
箇条書きやメモ書きの様式ではなく、文章で表現すること。
分量:800字以上
分量制限があるので、注意してください。
映画産業
映画を映画館で興行することによる収入、つまり入場料金による収入の総計を「興行収入」(興収と省略する)と呼びます。興行収入から興行にかかった費用(設備費や人件費、その他の経費)を差し引いた収入を「配給収入」(配収と省略する)になります。これは一般に興収の50~70%です。配給収入から宣伝費、諸経費、配給手数料(配給収入の15~50%)などを除いた収入が「配分金」と呼ばれ、これが映画を制作した会社に配分され、おもに制作経費にあてられます。製作委員会方式では配分金は製作委員会で分配します。一般的な割合では、配分金は興行収入の25~50%程度になります。
さてそれではここで映画産業を構成する3つの部門について説明します。
<製作部門>
* 作品の企画、内容、スタッフ集め、キャスティング、撮影場所の確保、映画化権の取得など
* 制作資金調達、製作方式の確定(製作委員会方式、ファンド方式など)
* Pre-Production:キャスト・スタッフ確定、ロケ地・スタジオ確保、予算調整、発表
* Production(制作):撮影(クランクイン~クランクアップ)
* Post-Production:編集、試写
<配給部門>
* 権利獲得:劇場上映権、配給権の獲得、興行後収入などについての契約
* 配給計画:公開規模、時期、宣伝予算、収支の策定
* 劇場確保:劇場のブッキング(フリーブッキング方式、ブロックブッキング方式)
* 宣伝広告:さまざまな方式での宣伝の企画・実施(予告、ポスター、前売り、完成試写など)
* その他 :日本語吹き替え、字幕制作、映倫審査など
<興行部門>
* 映画館での上映:
大手映画会社のチェーン系(東宝、松竹など)、単館系・ミニシアター系(個人や中小興行会社の経営:角川、日活など)、シネコン系(ワーナー、TOHOなど)
* 興行会社の実務業務:
入場チケットの販売・もぎり、場内の管理、クレーム処理、関連商品の販売、飲食物の販売、映写など
<制作費のリスク管理とリスクヘッジ>
すでに説明したように、映画業界はテレビの登場、リクリエーションの多様化などによって入場者数が減少しました。人数が減少した分を興行部門では、値上げによって対処し、興行収入を確保(増加)してきました。しかしながら邦画は国内での興行が中心で、たとえ興収が確保されたとしてもハリウッド映画のように莫大な利益を得ることはありません。興行部門、配給部門は興行収入からある程度の利益を得ることができますが、製作部門はすでに制作費を出費していて、興収が配分されると制作費を確保できない可能性があります。そこでこうした制作費のリスクヘッジのために考案されたのが、「製作委員会方式」と「ファンド方式」です。
<製作委員会方式>
* 複数の企業が参加し、制作費を確保。
→「著作権」の共有、配分金の配分、興行後収入の配分
→リスクの分散
* 多様な広告媒体の確保
→出版社、テレビ局、IT関連企業の参加
* メディアミックスの容易化
→関連商品の開発と販売
→ライセンス関連事業の展開
* コンテンツ二次利用の容易化
→複数企業が参加することで二次利用が容易になる
<映画ファンド方式>
* 制作会社が制作費の50-75%確保できれば、残金はファンド(投資信託)から出資される方式→投資家が映画に投資するという方式
* 収益分配:全収入のうち15%を配給手数料として制作会社が受取り、残りは出資比率と契約比率によって配分される。ローリスク・ハイリターンの可能性もある
* ハリウッド映画では一般的な方式。ハリウッド映画には興収が少ない場合に保証する保険もある
<映画ファンドによる作品>
* ジャパン・デジタル・コンテンツ信託株式会社
シネカノン製作『フラガール』(‘06)、『パッチギLOVE&PEACE』(‘07)
* 日本映画ファンド株式会社
『着信アリ2』(‘04)、『戦国自衛隊1549』(‘05)、
* JDC信託は2009年に失敗した。
<コンテンツの二次利用>
1980年代までは、映画産業では映画が上映され、興行収入が確定した時点で、その映画に関わる業務(収益)は完了すると考えられてきました。つまり興収が収入のすべてだったのです。しかし映画業界を圧迫した原因となったテレビの普及、ニューメディアとして注目されたビデオの普及によって、自宅で映画を鑑賞するというライフスタイルが一般化することによって映画業界には大きな転機が訪れます。
映画館で映画を公開した後の映画の再利用です。これを「コンテンツの二次利用」と呼びます。現在は映画を撮影する前の製作段階ですでに映画の二次利用が計画されるようになっています。つまり興収によって回収できなかった制作費をコンテンツの二次利用によって回収するシステムや、興収以外の収入源を確保する計画が行われているのです。作品によっては最初から映画館での興行を実行せず、オリジナルDVDだけを製作したり、特定のケーブルテレビ局や衛星放送局だけでの放映を行います。
一般的なコンテンツ利用の流れとしては、次のようなものがあります。
劇場公開
↓
パッケージ販売(ビデオやDVD、ブルーレイ)
↓
CS放送、CATV放送
↓
地上波テレビ放送
↓
ネット配信
こうしたコンテンツ自体の二次利用だけでなく、コンテンツを利用した別作品の販売によって収入を得る場合もあります。たとえば「ゲーム化」、「小説・マンガ化」、「グッズ」などです。
さて現在映画には次のような権利(ライセンス)が設定されています。
劇場上演権、非劇場上映権、公共ビデオ権、ホームビデオ権、商業ビデオ権、地上波放送権、CATV権、衛星放送権、PPV権、VOD権、IP放送権、CCTV権、付随的権利
映画はこうした権利を販売して収益を得る「権利ビジネス」です。この権利をどのように扱うかによって商業戦略が変化します。
<ポケモン>
さて今回題材に取り上げた「ポケモン」は映画を中心としたビジネスモデルではなく、ゲームソフトを中心として企画されたメディアミックスモデルです。そしてメディアミックスモデルを日本で最初に本格化したのは、ポケモンと同じ子ども向けのコンテンツでした。いわゆる大人向けのコンテンツではこうしたメディアミックスモデルは考えられていませんでした。
ポケットモンスターは1996年ゲームボーイ用のゲームソフト、同時にポケモンカードゲームとして発売されました。当初の売れ行きは爆発的とは言えませんでした。ところが公式には150匹しかいないはずだけれども151番目の「幻のポケモン」がいるらしい、という都市伝説が広がり、発売後1年後もトップセールスを記録します。実はこれはゲームソフトのイースターエッグで、通常では登場しないポケモンでした(「ミュウ」)。それが偶然発見されてしまいました。この他にも開発者はいろいろなイースターエッグを仕込んでいて、それがゲームソフトの売り上げに影響しました。
この人気を得てゲームを原作としたTVアニメが制作されることになります。ちなみにゲームを原作にした映画作品はけっこうおおく制作されています。これについてはまた別の機会に詳しく説明したいと思います。
さてTVアニメ放映当初、子どもたちの間ではポケモンはけっこう知られていましたが、世間的にあまり知られていない存在でした。しかしながらある事件をきっかけにポケモンは世の中の多くの人、特に子どもの親世代に知られるようになります。いわゆる「ポケモンショック」です。
番組を観ていた一部の子どもたちに光過敏性発作が生じました。その数があまりに多く、ポケモンの放送は中断し、番組打ち切りの話が出ていました。この危機的状況が番組の人気に拍車をかけることになり、この事件からポケモンの躍進が始まります。
こうしてポケモンはゲームソフトを中心にしてTVアニメ、劇場映画、カードゲーム、マンガ、映像ソフト、グッズなどのメディアと連携した一大カンパニーを構成します。現在はポケモンの画像をライセンス提供するライセンス事業も大きくなり、全世界規模で業務展開されています。
映画と各コンテンツの関係を観ると、映画はストーリーとしては独立しています。今回題材としてあげた作品については実はTVアニメの内容と関係するストーリーだったのですが、ポケモンショックの影響で映画のほうがTVアニメの内容を先取りする形になりました。そのため第3作目からはTVアニメには影響のないストーリーが作られるようになっています。しかしながら映画に登場するポケモンはゲームソフトと密接な関係をもつように設定され、さらに大枠としてはTVアニメとも世界観を共有します。また映画ではTVアニメでは扱えないような壮大で抽象的なテーマをじっくりと取り上げ、子ども向けの作品をこえた内容になっています。
こうしてポケモンはすべてのメディアが連携して全体の売り上げに貢献する仕組みになりました。後はポケモン年表を見て考えてみてください。
参照
それでは第1回目のリポートの案内をします。課題は次の通り。
「映画館で観る映画と自宅で観る映画の相違点と共通点」
締め切り:2010年11月11日(木曜日)授業開始時間まで
提出方法:MICCSあるいは電子メール
電子メールでの提出先は講義中に紹介したアドレス
注意事項:
小論文にすること。感想文や作文ではない。
箇条書きやメモ書きの様式ではなく、文章で表現すること。
分量:800字以上
分量制限があるので、注意してください。