映画の社会学2011第7講 批評的方法(1)原作と映画 [映画の社会学]
映画の社会学 第7講 批評的方法(1) 原作と映画
<批評的方法とは?>
個々の作品を対象に研究します。メディア論的方法のように映画という物自体を総体的に扱うわけではありません。個々の作品を対象にするため、個々の作品内容(製作者のメッセージなど)、制作の手法、時代や社会の影響、原作との比較など。こうした視点に注意しながら一つの作品をじっくり取り組みます。
<映画の脚本>
映画の元になるのは脚本です。脚本をもとに映画が制作されます。初期の映画作品の多くは映画用に書かれたオリジナルの脚本が使われました。しかしいくつかの理由から原作のある作品が制作されるようになります。映画の原作には次のような種類があります。
戯曲(演劇)
小説
マンガ
ゲーム
ドラマ
映画(リメイク・続編)
歌
<原作を映画化する理由>
1.原作の内容を社会に紹介するため
原作を知っている製作者が作品のすばらしさを広めるために大衆メディアとしての映画を利用するということ。
2.メディアミックスとして
原作を含め、タイアップされた商品や作品全体の売り上げを伸ばすために映画を利用することがあります。特に出版業界の縮小には歯止めがききません。映画がヒットしてその影響で本の販売数が伸びれば一石二鳥になります。
3.売り上げが予想できる作品が制作できる
原作の売り上げや人気からあらかじめ収入が予想できる作品を映画化することができます。1つの作品がヒットすれば映画産業全体の盛り上げにつながります。あらかじめ売り上げが予想できれば、制作費が回収できない映画を制作しないことが可能になります。
4.安定した作品を制作できる
白紙の状態から内容を考え、脚本化すると内容が固まるまでに時間がかかり、全体の構成もぶれる場合があります。構成がしっかりした原作を使えば、構成がしっかりした映画を制作することができます。さらに出演者はあらかじめ作品全体のイメージをとらえ、役柄を考えやすくなります。ただし映画は作品として原作の世界観に制約されます。
<原作から映画化するポイント>
1.原作を忠実に再現
小説(文学)を映画化する場合、最近は原作の世界観や雰囲気を可能な限り忠実に表現しようとする映画が多くなっています。ただしメディアによって演出に違いがあります。
2.原作の枠組みだけを利用する
原作を特徴付けるような枠組みだけを利用して、ストーリーは原作とは異なった内容にする映画があります。たとえば「時をかける少女」は男2人女1人の関係、タイムリープという能力、過去の書き換えという枠組みが用いられて映画化されました。
3.登場人物のキャラだけを利用
物語、構成、枠組みなどは独自につくり、キャラだけを利用する映画があります。その結果、別々の作品の登場人物を集めた新しい作品を創出することがあります。
<小説と映画のメディアとしての違い>
小説:文字を読み、読者が場面を頭の中で想像する
→基本的に文字で情報を伝達
→登場人物の心情を文字で表現
→読者自身のペースで読める
→わからないときは自分で内容を再確認できる
映画:観客の五感を刺激する
→基本的に視聴覚に対して刺激する
→映画の内容、設備によって臭覚や触覚も刺激する
→登場人物の心情はセリフ、ナレーション、字幕、演技で表現
小説と映画は全く異なるメディアです。同じストーリーでも異なった表現が必要になります。原作と映画は全く別の作品だと捉えるべきです。映画が原作とは異なったイメージなるから、原作と映画で異なる点があるというだけで、映画の善し悪しを判断していけないと言うことです。
<原作と映画の差異を分析する意義>
たとえ原作に忠実に映画化する場合でも、映画化に際して原作の内容を変更する場合があります。その変更点には製作者の意図、意味、作品に込めるメッセージがあります。原作と映画は全く異なる作品であり、2つの比較して善し悪しを判断することに妥当性はありません。しかしその差異には映画の内容を理解するためのヒントがあります。
<代表的な変更ーカット>
原作から映画化する時に行う代表的な変更は「カット」です。変更には多くの理由がありますが、その典型的な理由をあげたいと思います。
1.尺(時間)を短くするため
→映画の放映時間はある程度決められています。
→あまり長いとトイレ休憩を入れなければなりません。
2.コンテキストからその場面が削除されても意味が通じる場合
→小説と映画では内容の認識方法に差があります。
3.その場面がない方がストーリーの流れがスムーズおよび単純化されるとき
→映画では小説のように何度も繰り返して内容を確認することはできません。
→1回観ただけでストーリーを理解できるように制作しなければなりません。
→上記の理由は内容の変更にも当てはまります。
【課題作品】
『阪急電車 片道15分の奇跡』2011年4月公開
監督:三宅喜重(みやけよししげ)
脚本:岡田恵和(おかだよしかず)
<本作での最大のカット>
映画化に際して大きくカットされた場面:征志とユキの物語
→小説ではオープニングとエンディングに位置づけられた重要な物語です。ただ他のストーリーと比較すると物語としての独立性は高い部分になります。
この部分をカットすることによって次のようなメリットがありました。
→上演時間が短くなる
→スピンオフを制作して映画の宣伝に利用できました。
この部分をカットするために映画本編にもいくつか修正が加えられ、原作では十分表現できていなかった独自のメッセージが加えられました。
<批評的方法とは?>
個々の作品を対象に研究します。メディア論的方法のように映画という物自体を総体的に扱うわけではありません。個々の作品を対象にするため、個々の作品内容(製作者のメッセージなど)、制作の手法、時代や社会の影響、原作との比較など。こうした視点に注意しながら一つの作品をじっくり取り組みます。
<映画の脚本>
映画の元になるのは脚本です。脚本をもとに映画が制作されます。初期の映画作品の多くは映画用に書かれたオリジナルの脚本が使われました。しかしいくつかの理由から原作のある作品が制作されるようになります。映画の原作には次のような種類があります。
戯曲(演劇)
小説
マンガ
ゲーム
ドラマ
映画(リメイク・続編)
歌
<原作を映画化する理由>
1.原作の内容を社会に紹介するため
原作を知っている製作者が作品のすばらしさを広めるために大衆メディアとしての映画を利用するということ。
2.メディアミックスとして
原作を含め、タイアップされた商品や作品全体の売り上げを伸ばすために映画を利用することがあります。特に出版業界の縮小には歯止めがききません。映画がヒットしてその影響で本の販売数が伸びれば一石二鳥になります。
3.売り上げが予想できる作品が制作できる
原作の売り上げや人気からあらかじめ収入が予想できる作品を映画化することができます。1つの作品がヒットすれば映画産業全体の盛り上げにつながります。あらかじめ売り上げが予想できれば、制作費が回収できない映画を制作しないことが可能になります。
4.安定した作品を制作できる
白紙の状態から内容を考え、脚本化すると内容が固まるまでに時間がかかり、全体の構成もぶれる場合があります。構成がしっかりした原作を使えば、構成がしっかりした映画を制作することができます。さらに出演者はあらかじめ作品全体のイメージをとらえ、役柄を考えやすくなります。ただし映画は作品として原作の世界観に制約されます。
<原作から映画化するポイント>
1.原作を忠実に再現
小説(文学)を映画化する場合、最近は原作の世界観や雰囲気を可能な限り忠実に表現しようとする映画が多くなっています。ただしメディアによって演出に違いがあります。
2.原作の枠組みだけを利用する
原作を特徴付けるような枠組みだけを利用して、ストーリーは原作とは異なった内容にする映画があります。たとえば「時をかける少女」は男2人女1人の関係、タイムリープという能力、過去の書き換えという枠組みが用いられて映画化されました。
3.登場人物のキャラだけを利用
物語、構成、枠組みなどは独自につくり、キャラだけを利用する映画があります。その結果、別々の作品の登場人物を集めた新しい作品を創出することがあります。
<小説と映画のメディアとしての違い>
小説:文字を読み、読者が場面を頭の中で想像する
→基本的に文字で情報を伝達
→登場人物の心情を文字で表現
→読者自身のペースで読める
→わからないときは自分で内容を再確認できる
映画:観客の五感を刺激する
→基本的に視聴覚に対して刺激する
→映画の内容、設備によって臭覚や触覚も刺激する
→登場人物の心情はセリフ、ナレーション、字幕、演技で表現
小説と映画は全く異なるメディアです。同じストーリーでも異なった表現が必要になります。原作と映画は全く別の作品だと捉えるべきです。映画が原作とは異なったイメージなるから、原作と映画で異なる点があるというだけで、映画の善し悪しを判断していけないと言うことです。
<原作と映画の差異を分析する意義>
たとえ原作に忠実に映画化する場合でも、映画化に際して原作の内容を変更する場合があります。その変更点には製作者の意図、意味、作品に込めるメッセージがあります。原作と映画は全く異なる作品であり、2つの比較して善し悪しを判断することに妥当性はありません。しかしその差異には映画の内容を理解するためのヒントがあります。
<代表的な変更ーカット>
原作から映画化する時に行う代表的な変更は「カット」です。変更には多くの理由がありますが、その典型的な理由をあげたいと思います。
1.尺(時間)を短くするため
→映画の放映時間はある程度決められています。
→あまり長いとトイレ休憩を入れなければなりません。
2.コンテキストからその場面が削除されても意味が通じる場合
→小説と映画では内容の認識方法に差があります。
3.その場面がない方がストーリーの流れがスムーズおよび単純化されるとき
→映画では小説のように何度も繰り返して内容を確認することはできません。
→1回観ただけでストーリーを理解できるように制作しなければなりません。
→上記の理由は内容の変更にも当てはまります。
【課題作品】
『阪急電車 片道15分の奇跡』2011年4月公開
監督:三宅喜重(みやけよししげ)
脚本:岡田恵和(おかだよしかず)
<本作での最大のカット>
映画化に際して大きくカットされた場面:征志とユキの物語
→小説ではオープニングとエンディングに位置づけられた重要な物語です。ただ他のストーリーと比較すると物語としての独立性は高い部分になります。
この部分をカットすることによって次のようなメリットがありました。
→上演時間が短くなる
→スピンオフを制作して映画の宣伝に利用できました。
この部分をカットするために映画本編にもいくつか修正が加えられ、原作では十分表現できていなかった独自のメッセージが加えられました。
阪急電車 片道15分の奇跡 OFFICIAL FILM BOOK (TOKYO NEWS MOOK 226号)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 東京ニュース通信社
- 発売日: 2011/04/02
- メディア: ムック
映画の社会学2011第6講 産業としての映画 [映画の社会学]
映画の社会学 第6講 産業としての映画
<映画産業の構造>
映画産業は大きく「興行」、「配給」、「制作」の3つの部門に分けることができます。アメリカでも日本でも映画産業が盛んだった頃には3つの部門はメジャーと呼ばれる映画会社が独占していました。つまり映画会社が3つの部門すべてを行っていたということです。
しかしアメリカでは産業の独占禁止のため、日本では3部門すべてに関係して経営できるほど経営が安定していなかったため、3つの部門にはそれぞれ別の企業(会社)が従事するようになりました。
興行
映画館:映画興行会社
配給
映画配給会社、映画宣伝会社
制作(製作)
映像制作会社、プロダクション
<映画興行による収入と配分>
興行収入
入場料金収入の総計
配給収入
興行収入から興行にかかった費用を差し引いた収入(興収の50-70%)
配分金
配給収入から宣伝費、配給手数料(15-50%)をのぞいた収入
→興収の配布分についてはすべて「契約」にも説いて行われます。これをみればわかるように、制作に直接関わる経費に対する収入はかなり少ない比率になります。
<製作部門>
・作品の企画、内容、スタッフ集め、キャスティング、撮影場所の確保、映画化権の取得など。
・制作資金調達、製作方式の確定(製作委員会方式、ファンド方式など)。
・Pre-Production:キャスト・スタッフ確定、ロケ地・スタジオ確保、予算調整、発表。
・Post-Production:編集、試写。
<配給部門>
・権利獲得:劇場上映権、配給権の獲得、興行後収入などについての契約。
・配給計画:公開規模、時期、宣伝予算、収支の策定など。
・劇場確保:劇場のブッキング(フリーブッキング方式、ブロックブッキング方式)。
・宣伝広告:様々な方式での宣伝の企画・実施(予告、ポスター、前売り、完成試写など)。
・その他:日本語吹き替え、字幕製作、映倫審査など。
<興行部門>
映画館での上映:
大手映画会社のチェーン系(東宝、松竹など)、単館系・ミニシアター系(個人や中小興行会社の経営:角川、日活など)、シネコン系(ワーナー、TOHOなど)
興行会社の実務業務:
入場チケットの販売・もぎり、場内の管理、クレーム処理、関連商品の販売、飲食物の販売、映写など
<制作費のリスク管理>
興行部門は観客が減少することによって興収が減少するのを、入場料の値上げによってカバーしてきました。その結果、観客数は減少し続けましたが、興行収入は増加するという現象が生じています。しかしながら日本映画は国内での興行が中心で、ハリウッド映画のように全世界を対象にしているわけではありません。だからたとえ興収が確保できたとしてもハリウッド映画と比較して、その額は小さく、制作費が確保できない可能性があります。そうした制作費が確保できないリスクヘッジに対処するため2つの方式が考えられました。
・製作委員会方式
・ファンド方式
製作委員会方式が初めに導入されたのはアニメーション映画の世界です。そして日本ではこの製作委員会方式が映画製作の中心になっています。
<製作委員会方式>
製作委員会方式は複数の企業が参加して制作費を出資し合う方式です。この方式では「著作権」を共有し、配分金を配分、興行後収入の配分を行います。このようにして制作費が確保できない場合のリスクを分散します。
製作委員会方式にはいくつかのメリットがあります。
1.多様な広告媒体の確保
→出版社、テレビ局、IT関連企業の参加
→広告会社の加入
製作委員会に広告媒体になる企業が参加していると宣伝しやすくなります。
2.メディアミックスの容易化
→関連商品の開発と販売
→ライセンス関連事業の展開
映画は本来映画というコンテンツだけを取り扱っていた。しかし1970年頃からコンテンツに関連する商品も開発され、その商品も広告媒体となってコンテンツと一緒に売り上げに貢献することになりました。こうした商品開発・製造・販売に関わるライセンス事業やグッズ開発には複数の企業が関係します。製作委員会にそうした企業が参加していれば、映画以外の商品とからんだメディアミックスが容易に実現します。
3.コンテンツ二次利用の容易化
→複数企業が参加することでコンテンツの二次利用が容易になります。
これについては後述します。
<映画ファンド方式>
制作会社が制作費の50-75%を確保できれば、残金はファンド(投資信託)から出資されるという方式です。つまり投資家が資金を映画に投資するという方式。
収益配分:全収入のうち15%を配給手数料として制作会社が受け取り、残りは出資比率と契約比率によって配分されます。ローリスク・ハイリターンの可能性があります。
この方式はハリウッド映画では一般的な方式で、ハリウッド映画(アメリカ映画業界)には興収が少ない場合に、制作費を保証する保険もあります。
日本でも映画ファンドによって制作された作品があります。
ジャパン・デジタル・コンテツ信託株式会社による作品:
シネカノン制作『フラガール』(2006)
『パッチギ!LOVE&PEACE』(2007)
→JDC信託は2009年に破綻しました。
日本映画ファンド株式会社
『着信アリ2』(2004)
『戦国自衛隊1549』(2005)
*映画ファンドによるヒット作品はいくつかあるのですが、ハリウッド映画ほどには定着しません。
<コンテンツの二次利用>
現在法律では映画に次のような13の権利が設定されています。
劇場上演権
非劇場上映権
公共ビデオ権
ホームビデオ権
商業ビデオ権
地上波放送権
CATV権
衛星放送権
PPV権
VOD権
IP放送権
CCTV権
付随的権利
映画ビジネスは、権利を販売して収益を得る権利ビジネスなのです。
1980年代までは、映画産業では映画が映画館で上映され、興行収入が確定した時点で、その映画に関わる業務(収益)は完了すると考えられてきました。この時代には映画ビジネスは興収がすべてだったのです。
しかしテレビの普及、ビデオの一般化などにより自宅で映画を鑑賞するということが一般化しました。このような映画鑑賞についてのライフスタイルの変化が映画ビジネスのあり方自体を変えるようになりました。
現在では映画館での興行終了後にコンテンツを利用するというコンテンツの二次利用が、製作段階から計画されるようになっています。これは企画立案の内容に広がりが生じているということと同時に、テレビ放送局を中心とした製作体制にシフトしていることを示しています。
映画コンテンツは次のようなウィンドウで利用されます。
劇場公開
↓
パッケージ販売
↓
テレビ放送
↓
ネット配信
そして次ような形でタイアップしています。
小説・マンガ化
グッズ販売
ゲーム化
現在映画ビジネスでは劇場での公開以外のウィンドウでの売り上げ増加を目指したコンテンツが作成されています。たとえば映画撮影と同時進行でメイキング映像が撮影され、出演者へのインタビューなどが行われ、それが特別映像としてDVDやブルーレイなどのパッケージに盛り込まれます。レンタルショップでの売り上げと同時に一般視聴者へのパッケージ販売は着実に伸ばしています。
<映画撮影による経済効果>
映画産業(映画ビジネス)は映画というコンテンツに関連する権利ビジネスです。端的に言えばコンテンツを販売することで産業が成り立っています。しかし映画産業の経済効果は映画業界だけでは完結しません。すでに述べたように映画は舞台作品のように舞台という場所に限定されず、カメラさえあればどこでも撮影できます。ロケーション撮影によって撮影地という地域を中心に様々な経済効果が生まれます。その一つはFC(Film Commission)です。
<ロケ撮影>
ロケ撮影は出演者が現地の雰囲気を『肌で感じ』、リアリティのある演技につながる。しかし天候に左右されて撮影期間が延びる、ロケ地までの移動に時間や経費がかかるなどのデメリットもあります。
ロケ撮影では次のようなことが必要になります。
・撮影許可が必要
・宿泊場所の確保、食料の調達
・エキストラの確保
・ロケハン(ロケーション・ハンティング)の時間
<FCの機能>
FCは撮影隊に必要なさまざまなサービスを提供します。サービスの内容はFCによって異なりますが、おおよそ次のようなことです。
・ロケ地の紹介(ロケハンを代わりに実施する)
・許可・届出手続きのOne Stop Service→窓口の一元化
・ロケ撮影に伴う多様な支援
・宿泊場所の確保
・食事の確保
・エキストラの確保
・移動手段の確保
<映画誘致のメリット>
映画の撮影隊を地域に誘致するメリットはおおよそ次のようにまとめられます。
・撮影隊が地域にお金を落とす(直接的経済効果)
→宿泊や食事、ロケ地内の移動など
・地域の良さをPRするチャンネルになる。
・観光客増加による観光地効果(間接的経済効果)。
・映像作り=まちづくり(地域文化の創造や向上)
→ソフトパワーの強化(ソフトの力によって他地域に影響力をもつ)
<FCの発祥>
ユタ州モアド・ユコン商工会議所のチャーリー・ホワイトが1940年代にFC活動を開始し、西部劇の撮影に利用されました。この事業の成功をみたコロラド州キャロル・スミスもコロラド州でFC活動を開始。1969年に州政府がスポンサーになってFCが設立しました。
こうしてFC活動がアメリカ全土に広がり、1975年AFCI(Association of Film Commissioners International、国際フィルムコミッショナーズ協会)が設立されました。
<日本のFC活動>
2000年2月大阪ロケーション・サービス協議会(大阪商工会議所内)が設立されました。これが日本で最初のFC活動です。大阪での活動が全国に展開され、2001年8月全国フィルム・コミッション連絡協議会が設立され、2008年9月には101の団体が加盟しています。2009年にこの団体はジャパン・フィルム・コミッションへ発展的に解消しました。
http://www.japanfc.org/
本日締め切りのリポートですが、数名の人が分量制限を守ったおられませんでした。その方々は残念ながらF評価になります。
<映画産業の構造>
映画産業は大きく「興行」、「配給」、「制作」の3つの部門に分けることができます。アメリカでも日本でも映画産業が盛んだった頃には3つの部門はメジャーと呼ばれる映画会社が独占していました。つまり映画会社が3つの部門すべてを行っていたということです。
しかしアメリカでは産業の独占禁止のため、日本では3部門すべてに関係して経営できるほど経営が安定していなかったため、3つの部門にはそれぞれ別の企業(会社)が従事するようになりました。
興行
映画館:映画興行会社
配給
映画配給会社、映画宣伝会社
制作(製作)
映像制作会社、プロダクション
<映画興行による収入と配分>
興行収入
入場料金収入の総計
配給収入
興行収入から興行にかかった費用を差し引いた収入(興収の50-70%)
配分金
配給収入から宣伝費、配給手数料(15-50%)をのぞいた収入
→興収の配布分についてはすべて「契約」にも説いて行われます。これをみればわかるように、制作に直接関わる経費に対する収入はかなり少ない比率になります。
<製作部門>
・作品の企画、内容、スタッフ集め、キャスティング、撮影場所の確保、映画化権の取得など。
・制作資金調達、製作方式の確定(製作委員会方式、ファンド方式など)。
・Pre-Production:キャスト・スタッフ確定、ロケ地・スタジオ確保、予算調整、発表。
・Post-Production:編集、試写。
<配給部門>
・権利獲得:劇場上映権、配給権の獲得、興行後収入などについての契約。
・配給計画:公開規模、時期、宣伝予算、収支の策定など。
・劇場確保:劇場のブッキング(フリーブッキング方式、ブロックブッキング方式)。
・宣伝広告:様々な方式での宣伝の企画・実施(予告、ポスター、前売り、完成試写など)。
・その他:日本語吹き替え、字幕製作、映倫審査など。
<興行部門>
映画館での上映:
大手映画会社のチェーン系(東宝、松竹など)、単館系・ミニシアター系(個人や中小興行会社の経営:角川、日活など)、シネコン系(ワーナー、TOHOなど)
興行会社の実務業務:
入場チケットの販売・もぎり、場内の管理、クレーム処理、関連商品の販売、飲食物の販売、映写など
<制作費のリスク管理>
興行部門は観客が減少することによって興収が減少するのを、入場料の値上げによってカバーしてきました。その結果、観客数は減少し続けましたが、興行収入は増加するという現象が生じています。しかしながら日本映画は国内での興行が中心で、ハリウッド映画のように全世界を対象にしているわけではありません。だからたとえ興収が確保できたとしてもハリウッド映画と比較して、その額は小さく、制作費が確保できない可能性があります。そうした制作費が確保できないリスクヘッジに対処するため2つの方式が考えられました。
・製作委員会方式
・ファンド方式
製作委員会方式が初めに導入されたのはアニメーション映画の世界です。そして日本ではこの製作委員会方式が映画製作の中心になっています。
<製作委員会方式>
製作委員会方式は複数の企業が参加して制作費を出資し合う方式です。この方式では「著作権」を共有し、配分金を配分、興行後収入の配分を行います。このようにして制作費が確保できない場合のリスクを分散します。
製作委員会方式にはいくつかのメリットがあります。
1.多様な広告媒体の確保
→出版社、テレビ局、IT関連企業の参加
→広告会社の加入
製作委員会に広告媒体になる企業が参加していると宣伝しやすくなります。
2.メディアミックスの容易化
→関連商品の開発と販売
→ライセンス関連事業の展開
映画は本来映画というコンテンツだけを取り扱っていた。しかし1970年頃からコンテンツに関連する商品も開発され、その商品も広告媒体となってコンテンツと一緒に売り上げに貢献することになりました。こうした商品開発・製造・販売に関わるライセンス事業やグッズ開発には複数の企業が関係します。製作委員会にそうした企業が参加していれば、映画以外の商品とからんだメディアミックスが容易に実現します。
3.コンテンツ二次利用の容易化
→複数企業が参加することでコンテンツの二次利用が容易になります。
これについては後述します。
<映画ファンド方式>
制作会社が制作費の50-75%を確保できれば、残金はファンド(投資信託)から出資されるという方式です。つまり投資家が資金を映画に投資するという方式。
収益配分:全収入のうち15%を配給手数料として制作会社が受け取り、残りは出資比率と契約比率によって配分されます。ローリスク・ハイリターンの可能性があります。
この方式はハリウッド映画では一般的な方式で、ハリウッド映画(アメリカ映画業界)には興収が少ない場合に、制作費を保証する保険もあります。
日本でも映画ファンドによって制作された作品があります。
ジャパン・デジタル・コンテツ信託株式会社による作品:
シネカノン制作『フラガール』(2006)
『パッチギ!LOVE&PEACE』(2007)
→JDC信託は2009年に破綻しました。
日本映画ファンド株式会社
『着信アリ2』(2004)
『戦国自衛隊1549』(2005)
*映画ファンドによるヒット作品はいくつかあるのですが、ハリウッド映画ほどには定着しません。
<コンテンツの二次利用>
現在法律では映画に次のような13の権利が設定されています。
劇場上演権
非劇場上映権
公共ビデオ権
ホームビデオ権
商業ビデオ権
地上波放送権
CATV権
衛星放送権
PPV権
VOD権
IP放送権
CCTV権
付随的権利
映画ビジネスは、権利を販売して収益を得る権利ビジネスなのです。
1980年代までは、映画産業では映画が映画館で上映され、興行収入が確定した時点で、その映画に関わる業務(収益)は完了すると考えられてきました。この時代には映画ビジネスは興収がすべてだったのです。
しかしテレビの普及、ビデオの一般化などにより自宅で映画を鑑賞するということが一般化しました。このような映画鑑賞についてのライフスタイルの変化が映画ビジネスのあり方自体を変えるようになりました。
現在では映画館での興行終了後にコンテンツを利用するというコンテンツの二次利用が、製作段階から計画されるようになっています。これは企画立案の内容に広がりが生じているということと同時に、テレビ放送局を中心とした製作体制にシフトしていることを示しています。
映画コンテンツは次のようなウィンドウで利用されます。
劇場公開
↓
パッケージ販売
↓
テレビ放送
↓
ネット配信
そして次ような形でタイアップしています。
小説・マンガ化
グッズ販売
ゲーム化
現在映画ビジネスでは劇場での公開以外のウィンドウでの売り上げ増加を目指したコンテンツが作成されています。たとえば映画撮影と同時進行でメイキング映像が撮影され、出演者へのインタビューなどが行われ、それが特別映像としてDVDやブルーレイなどのパッケージに盛り込まれます。レンタルショップでの売り上げと同時に一般視聴者へのパッケージ販売は着実に伸ばしています。
<映画撮影による経済効果>
映画産業(映画ビジネス)は映画というコンテンツに関連する権利ビジネスです。端的に言えばコンテンツを販売することで産業が成り立っています。しかし映画産業の経済効果は映画業界だけでは完結しません。すでに述べたように映画は舞台作品のように舞台という場所に限定されず、カメラさえあればどこでも撮影できます。ロケーション撮影によって撮影地という地域を中心に様々な経済効果が生まれます。その一つはFC(Film Commission)です。
<ロケ撮影>
ロケ撮影は出演者が現地の雰囲気を『肌で感じ』、リアリティのある演技につながる。しかし天候に左右されて撮影期間が延びる、ロケ地までの移動に時間や経費がかかるなどのデメリットもあります。
ロケ撮影では次のようなことが必要になります。
・撮影許可が必要
・宿泊場所の確保、食料の調達
・エキストラの確保
・ロケハン(ロケーション・ハンティング)の時間
<FCの機能>
FCは撮影隊に必要なさまざまなサービスを提供します。サービスの内容はFCによって異なりますが、おおよそ次のようなことです。
・ロケ地の紹介(ロケハンを代わりに実施する)
・許可・届出手続きのOne Stop Service→窓口の一元化
・ロケ撮影に伴う多様な支援
・宿泊場所の確保
・食事の確保
・エキストラの確保
・移動手段の確保
<映画誘致のメリット>
映画の撮影隊を地域に誘致するメリットはおおよそ次のようにまとめられます。
・撮影隊が地域にお金を落とす(直接的経済効果)
→宿泊や食事、ロケ地内の移動など
・地域の良さをPRするチャンネルになる。
・観光客増加による観光地効果(間接的経済効果)。
・映像作り=まちづくり(地域文化の創造や向上)
→ソフトパワーの強化(ソフトの力によって他地域に影響力をもつ)
<FCの発祥>
ユタ州モアド・ユコン商工会議所のチャーリー・ホワイトが1940年代にFC活動を開始し、西部劇の撮影に利用されました。この事業の成功をみたコロラド州キャロル・スミスもコロラド州でFC活動を開始。1969年に州政府がスポンサーになってFCが設立しました。
こうしてFC活動がアメリカ全土に広がり、1975年AFCI(Association of Film Commissioners International、国際フィルムコミッショナーズ協会)が設立されました。
<日本のFC活動>
2000年2月大阪ロケーション・サービス協議会(大阪商工会議所内)が設立されました。これが日本で最初のFC活動です。大阪での活動が全国に展開され、2001年8月全国フィルム・コミッション連絡協議会が設立され、2008年9月には101の団体が加盟しています。2009年にこの団体はジャパン・フィルム・コミッションへ発展的に解消しました。
http://www.japanfc.org/
本日締め切りのリポートですが、数名の人が分量制限を守ったおられませんでした。その方々は残念ながらF評価になります。
映画の社会学2011第4,5講 メディア論的方法(3) [映画の社会学]
映画の社会学 第4,5講 メディア論的方法(3)
他の媒体と映画の比較
リポート1
映画の原点はアニメーションです。映画産業の画期的な戦略の大部分はアニメーション製作現場から行われています。
すでに述べたようにCG技術の進歩によってアニメーションで表現される作品はすべて実写映画でも表現できるようになりました。従って、
アニメーションでしか表現できないことは何か
アニメーションで表現するメリットは何か
実写映画で表現する意味は何か
それぞれの表現方法を選択した意義をもたなければなりません。そうでなければ観客に対して説得力のある作品を制作できないでしょう。それを踏まえてリポート課題を設定しました。
【第1回リポートの案内】
課題:
「BALLADを通してアニメーションを実写化する意義について考察する」
期限:2011年10月27日(木曜日)授業開始時間
<注意事項>
小論文にすること。
感想文や作文ではない。
箇条書きやメモ書きの様式ではなく、文章で表現すること。
自分の主張に関する「根拠」を明確に論述すること。
分量:800字以上
<リポート提出について>
MICCSあるいは電子メールで提出すること。
電子メールで提出する場合は「受理確認メール」を確認すること。
ケータイメールからのリポート提出を許可。
他の媒体と映画の比較
リポート1
映画の原点はアニメーションです。映画産業の画期的な戦略の大部分はアニメーション製作現場から行われています。
すでに述べたようにCG技術の進歩によってアニメーションで表現される作品はすべて実写映画でも表現できるようになりました。従って、
アニメーションでしか表現できないことは何か
アニメーションで表現するメリットは何か
実写映画で表現する意味は何か
それぞれの表現方法を選択した意義をもたなければなりません。そうでなければ観客に対して説得力のある作品を制作できないでしょう。それを踏まえてリポート課題を設定しました。
【第1回リポートの案内】
課題:
「BALLADを通してアニメーションを実写化する意義について考察する」
期限:2011年10月27日(木曜日)授業開始時間
<注意事項>
小論文にすること。
感想文や作文ではない。
箇条書きやメモ書きの様式ではなく、文章で表現すること。
自分の主張に関する「根拠」を明確に論述すること。
分量:800字以上
<リポート提出について>
MICCSあるいは電子メールで提出すること。
電子メールで提出する場合は「受理確認メール」を確認すること。
ケータイメールからのリポート提出を許可。
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映画の社会学2011第3講 メディア論的方法(2) [映画の社会学]
映画の社会学 第3講 メディア論的方法(2)
他の媒体と映画の比較
【小説の表現方法】
小説は原則として文字(言葉)で表現します。現象を文字(言葉)で表現するだけでなく、登場人物の「心の声」も言葉で表現されます。小説の特徴としては文字以外に描写の手段がないからです。読者は書かれた言葉を読んで、どういう風景なのか、何が生じているのかを想像するしかありません。
小説は「言葉の表現がすべて」です。
たとえばあさのあつこの『バッテリー』という小説では次のように表現されます。
「(やっと本気になったな)
豪は、山なりのボールを巧みにかえした。
返球を受ける。そして、
やっと本気になったな。
巧は、胸の内でつぶやいた。
まったく大人ってのは、せわがやける。ため息が出そうだった。稲村たちは、ずっと豪とのキャッチボールを見ていたのだ。本気にならなければ打てない球だとわからなかったのだろうか。鈍い。腹が立つほど鈍い。
もし、巧が大人だったら、稲村は一球目から本気でバットを握っただろう。あるいは、とても打てないと断ったかもしれない。どちらにしても、遊び半分で、打とうとは思わなかったはずだ。
あらためて稲村の顔を見た。さっきまでの笑いが、消えていた。構えも違う。小太りの身体が、少しひきしまった。力が漲る。
そうだ、本気になれよ。本気で向かってこい。子どもだとか小学生だとか中学生だとか、関係ないこと全部すてて、おれの球だけを見てろよ。」
【漫画の表現方法】
漫画では大きく文字(セリフ)での表現と絵での表現の2種類がある。
<文字で表現>
基本的に漫画での文字表現は吹き出しに書かれたセリフで行われます。この吹き出しに書かれたセリフは声に出された言葉です。海外の漫画のほとんどがセリフは吹き出しに挿入されています。日本漫画では、吹き出しのないセリフが使われる場合があります。特に少女漫画では吹き出しのないセリフによって登場人物の心の声が表現されます。ナレーションも吹き出しのないセリフによって表現されることがあります。
<絵で表現>
登場人物の感情をキャラの表現、記号、背景などで表現されます。
こうして漫画では文字と絵の2種類を組み合わせて、情景描写、心情表現が行われます。
【ラジオの表現方法】
ラジオは視覚にうったえるメディアではありません。ラジオは聴覚媒体です。従って、次のような表現方法が用いられます。
・声の調子(音の高さ、強さ、ふるえ、息のまぜ具合、鼻音のバランスなど)
・効果音(雨音、風音、騒音など)
・音楽
→音楽はセリフ以上に人間の心の声を明確に表現します。
【アニメーションにおける声優の表現】
ラジオドラマは「聴く」要素だけで「観る」要素がありません。それに対してアニメーションは「聴く」要素も「観る」要素もあります。だから声優は同じように声だけを出していますが、表現に違いが見られます。
ラジオドラマでは声だけですべての表現をしなければなりません。しかしアニメーションは声だけでなく、むしろ視覚表現の補助的役割になることがあります。そしてアニメーションの場合、絵と矛盾しない表現が必要です。
【映画での表現】
<ナレーション>
ナレーションは画面の画像によってではなく、画面の外で行われる音声です。これはセリフにはならない音声で、登場人物の心情が表現されたり、画面に映された状況を登場人物が紹介する場合に用いられます。
<文字>
音声ではなく文字で登場人物の心情が表現される場合があります。メール、チャットなどが一般的になってからはPCや携帯電話の画面に文字を写しだして表現するようになっています。メールやチャットで文字を利用するのは物語の進行の上で必然性があります。しかしそうした必然性はなく、画面に字幕(テロップ)を使って登場人物の心情や状況を表現する場合もあります。
→言葉を視覚的に表現するということです。
<独白>
ナレーションのように声にならないセリフではなく、きちんと声に出しているのに、誰かに語りかけてはいないセリフを独白と言います。独白もナレーションと同じようにそのときの登場人物の心情や状況を説明する内容になります。
たいてい独白は誰もいない場所で行われるか、まわりに誰かがいたとしても独白の内容が無視されます。
<アイテム>
本人以外の人物やアイテムによって登場人物の心情が表現される場合があります。たとえば他の登場人物に心情を語らせたり、代役をさせたりします。手紙やテープというのは登場人物の心情を直接表現するのに有効なアイテムです。心情を人格化して表現する場合もあります。
<画面の色>
想い出、過去の出来事などを表現する場合には、カラーではなく白黒やセピア色で表現します。
<演技>
普通は登場人物の表情や行動、しぐさなどの演技によって登場人物の心情が表現されます。これは日常生活で行われていることと同じです。私たちも行動やしぐさ、態度あるいは声の調子によって相手の心情を読み取ります。
<画面上の表現>
フレーム(構図)での表現
→客観的視点ー主観的視点
→人物の配置、ものの配置
→役者の立ち位置
→アングル
カメラの撮影方法
カメラの移動ーカメラの固定
→カメラの動きによって登場人物の心情が表現されます。
他の媒体と映画の比較
【小説の表現方法】
小説は原則として文字(言葉)で表現します。現象を文字(言葉)で表現するだけでなく、登場人物の「心の声」も言葉で表現されます。小説の特徴としては文字以外に描写の手段がないからです。読者は書かれた言葉を読んで、どういう風景なのか、何が生じているのかを想像するしかありません。
小説は「言葉の表現がすべて」です。
たとえばあさのあつこの『バッテリー』という小説では次のように表現されます。
「(やっと本気になったな)
豪は、山なりのボールを巧みにかえした。
返球を受ける。そして、
やっと本気になったな。
巧は、胸の内でつぶやいた。
まったく大人ってのは、せわがやける。ため息が出そうだった。稲村たちは、ずっと豪とのキャッチボールを見ていたのだ。本気にならなければ打てない球だとわからなかったのだろうか。鈍い。腹が立つほど鈍い。
もし、巧が大人だったら、稲村は一球目から本気でバットを握っただろう。あるいは、とても打てないと断ったかもしれない。どちらにしても、遊び半分で、打とうとは思わなかったはずだ。
あらためて稲村の顔を見た。さっきまでの笑いが、消えていた。構えも違う。小太りの身体が、少しひきしまった。力が漲る。
そうだ、本気になれよ。本気で向かってこい。子どもだとか小学生だとか中学生だとか、関係ないこと全部すてて、おれの球だけを見てろよ。」
【漫画の表現方法】
漫画では大きく文字(セリフ)での表現と絵での表現の2種類がある。
<文字で表現>
基本的に漫画での文字表現は吹き出しに書かれたセリフで行われます。この吹き出しに書かれたセリフは声に出された言葉です。海外の漫画のほとんどがセリフは吹き出しに挿入されています。日本漫画では、吹き出しのないセリフが使われる場合があります。特に少女漫画では吹き出しのないセリフによって登場人物の心の声が表現されます。ナレーションも吹き出しのないセリフによって表現されることがあります。
<絵で表現>
登場人物の感情をキャラの表現、記号、背景などで表現されます。
こうして漫画では文字と絵の2種類を組み合わせて、情景描写、心情表現が行われます。
【ラジオの表現方法】
ラジオは視覚にうったえるメディアではありません。ラジオは聴覚媒体です。従って、次のような表現方法が用いられます。
・声の調子(音の高さ、強さ、ふるえ、息のまぜ具合、鼻音のバランスなど)
・効果音(雨音、風音、騒音など)
・音楽
→音楽はセリフ以上に人間の心の声を明確に表現します。
【アニメーションにおける声優の表現】
ラジオドラマは「聴く」要素だけで「観る」要素がありません。それに対してアニメーションは「聴く」要素も「観る」要素もあります。だから声優は同じように声だけを出していますが、表現に違いが見られます。
ラジオドラマでは声だけですべての表現をしなければなりません。しかしアニメーションは声だけでなく、むしろ視覚表現の補助的役割になることがあります。そしてアニメーションの場合、絵と矛盾しない表現が必要です。
【映画での表現】
<ナレーション>
ナレーションは画面の画像によってではなく、画面の外で行われる音声です。これはセリフにはならない音声で、登場人物の心情が表現されたり、画面に映された状況を登場人物が紹介する場合に用いられます。
<文字>
音声ではなく文字で登場人物の心情が表現される場合があります。メール、チャットなどが一般的になってからはPCや携帯電話の画面に文字を写しだして表現するようになっています。メールやチャットで文字を利用するのは物語の進行の上で必然性があります。しかしそうした必然性はなく、画面に字幕(テロップ)を使って登場人物の心情や状況を表現する場合もあります。
→言葉を視覚的に表現するということです。
<独白>
ナレーションのように声にならないセリフではなく、きちんと声に出しているのに、誰かに語りかけてはいないセリフを独白と言います。独白もナレーションと同じようにそのときの登場人物の心情や状況を説明する内容になります。
たいてい独白は誰もいない場所で行われるか、まわりに誰かがいたとしても独白の内容が無視されます。
<アイテム>
本人以外の人物やアイテムによって登場人物の心情が表現される場合があります。たとえば他の登場人物に心情を語らせたり、代役をさせたりします。手紙やテープというのは登場人物の心情を直接表現するのに有効なアイテムです。心情を人格化して表現する場合もあります。
<画面の色>
想い出、過去の出来事などを表現する場合には、カラーではなく白黒やセピア色で表現します。
<演技>
普通は登場人物の表情や行動、しぐさなどの演技によって登場人物の心情が表現されます。これは日常生活で行われていることと同じです。私たちも行動やしぐさ、態度あるいは声の調子によって相手の心情を読み取ります。
<画面上の表現>
フレーム(構図)での表現
→客観的視点ー主観的視点
→人物の配置、ものの配置
→役者の立ち位置
→アングル
カメラの撮影方法
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→カメラの動きによって登場人物の心情が表現されます。
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映画の社会学2011第2講 メディア論的方法(1) [映画の社会学]
映画の社会学 第2講 メディア論的方法(1)
映画と演劇の比較
題材:
原作:三浦しをん『風が強く吹いている』(新潮社)
舞台:2009年初演
鈴木裕美演出、鈴木哲也脚本
アトエリ・ダンカン、イープラス企画・製作
映画:2009年公開
大森寿美男脚本・監督
【観客から見る演劇の特徴】
・臨場感
・現場性
・一回性
・相互性
・共有感(共犯性?)
・共振性
・時間的限定性
・高価格性
<臨場感ー現場性>
演劇ではたとえば強盗が目の前で生じているように、観客の目の前で物語が進行します。それは誰かから話を聞いたことでもなく、過去に生じた出来事でもありません。自分自身が直接体験していることです。演技者の演技を目の前で「生」で見聞きし、感じています。それはその現場にいるという感覚で、いわゆる「ライブ感」です。コンサートをテレビではなく、会場でみているのと同じような感覚でしょう。
<臨場感ー一回性>
歴史上の事件が1回だけの出来事であるのと同様に、その時その場で見聞きする舞台はそのとき1回きりの出来事です。二度と同じ事は生じません。つまり再現性がないということです。同じ舞台で、同じセリフで、同じ相手に舞台が行われているので、毎回同じ内容になっていると一般的には考えられます。しかし実際には公演日の天候、公演時間、演技者の体調、劇場の「雰囲気」、その人の演技者のやりとりなどによって舞台の内容が変化します。人間がやることなので、同じ舞台でも再現性はありません。
<臨場感ー相互性>
舞台は舞台の上に立っている役者によってつくられます。しかし実はその日の舞台は舞台の上の演技者だけによってつくられているわけではありません。舞台はそこで演じている演技者とそれを観ている観客との相互作用によって作られる、という側面があります。
たとえば観客が無反応であった場合、演技者はきちんと演技できない場合があります。『8時だよ。全員集合!」は舞台の上から観客に向かって声をかけています。もし観客が無反応であったら、おそらく話を先にすすめることができません。あの番組ではいかに観客を舞台に巻き込んでいくか、が重要になります。そして舞台の演技者と観客とが一緒になって舞台を作り上げていくのです。
<共有感>
演劇には特有のルールやお約束があります。劇団特有のルールがある場合もあります。観客の多くはそのことを出演者と共有することによって、より深く演劇を楽しむことが出来ます。
この共有感は舞台の特徴である一回性とも関係しています。観客と演技者がつくる雰囲気はその場でしか形成されません。
<共振性>
舞台の雰囲気は観客と演技者との相互作用だけでなく、その場の雰囲気を共有した観客同士でも形成されます。その場にいる観客同士の感情が共振して、舞台の雰囲気が作られるのです。
<時間的限定性>
映画の場合、公開期間中は毎日何回も放映されています。シネマコンプレックス形式の劇場では、複数の映画が同時に上映されます。観客はある程度自分の時間的な都合に合わせて、自分の好きな映画を鑑賞できます。
演劇の場合、公演の日時が映画よりも限定的で、人気のある劇団では自分の都合にあわせて演劇を鑑賞することができない場合があります。つまり演劇鑑賞にはそれなりに鑑賞したいという意欲が必要だということです。
<高価格性>
現時点では劇場の入場料金と演劇の鑑賞料金(入場料金)を比較した場合、座席によって差はありますが、演劇の鑑賞料金の方がはるかに高額になっています。一般に人は高額なものほど大切に扱いますが、同じことが鑑賞料金にもいえます。鑑賞料金の高い演劇の方が料金を支払った観客は集中して鑑賞します。特に自分で料金を支払った場合は、多少退屈な場面があっても必死になって鑑賞しようとします。
【映画は演劇の特徴を継承したのか?】
映画は演劇にかわる娯楽として一般庶民に普及しました。それでも映画は演劇の特徴を継承したのでしょうか? 演劇と映画を比較した時、映画独自のメディアとしての特徴が現れます。
<継承したものー共振性>
演劇と同様に映画館で上映される映画でも観客同士の共振性は存在します。ホラー映画やいわゆる泣ける映画では、恐怖が共振したり、悲しみが共振したりします。
劇場での感情がうまく共振して大きな感動を生むことがあれば、作品への評価が高まります。その結果、リピーターが増加したり、その観客が別の観客への広告塔になる可能性があります。テレビでのCMではこうした効果をねらった映像が利用されるようです。
<継承しないことー共有感>
観客同士の共振性はありますが、観客と演技者との共有感はありません。映画は観客に対する一方通行的なメディアだからです。ただし観客が一方的に出演者に対して共有感を持つことはあります。これはファン心情といってもいいでしょうし、あこがれの感情と言ってもいいかもしれません。観客が演技者に対して共有感を抱いた場合には、出演者と同じような行動や態度をとる場合があります。
<継承できないことー相互性>
映画はいわば録画したものを再生しているだけで、事件が目の前で起こっているというような「臨場感」はありません。特に相互性はありません。もし映画の出演者と観客が映画を通して相互に影響し合って変化したら、それはファンタジーです。映画の前で観客が反応してもそれに対して映画の中の出演者の演技が変わることはありません。映画撮影中も出演者は観客の反応を確かめることは不可能です。
<継承できないことー一回性>
映画は再現性が高いメディアです。何回目観ても、同じ演技、同じ内容です。状況によって内容が変わることはありません。ただし鑑賞する時の観客の心情によって、映画から受けるメッセージが変わることはあります。
<継承できないことー現場性>
観客の目の前で物語が進行するわけではないため、現場性はありません。そのまで自分が経験しているようなリアリティもありません。しかし映画は演劇のように「舞台」という場所に限定されません。そのために演劇とは異なった「リアリティ」や「ライブ感」を生み出すことが可能です。
<映画的リアリティの創造>
演劇は舞台でしか演技できません。しかし映画は舞台ではなく、私たちが生活している、私たちの「現場」を舞台にして撮影することができます。いわゆるロケーション撮影です。ロケ撮影では、舞台のように狭い空間ではなく、広い空間を利用することができます。自分たちの生活の場で撮影されるのですから、その現場を知っている観客には強い親近感が感じられます。このようにして映画では演劇とは異なった映画独特のリアリティが創造されます。
演劇では観客がそれが何かがわかればいいので、舞台にきちんとしたセットを組む必要はなく、絵でもかまいません。しかし映画ではそうした背景が使われることはまれです。映画は演劇とは異なった臨場感が必要だということです。
そういう視点から考えると、映画では「見せる」演出が重要で、演劇では「聞かせる」演出が重要になるということがわかります。
映画ではロケ撮影という手法によって臨場感やリアリティを創造するのですが、ロケ撮影は欠点の多い手法です。一番大きな問題は天候です。天候によっては撮影ができません。あるいは思ったような光や影ができないこともあります。このほか、撮影地によっては移動に時間がかかり、場合によっては宿泊も必要になります。出演者、スタッフが多い場合には、交通費や宿泊費、食費などでかなり費用がかかります。
こうした欠点のないのがセット撮影です。セットだけでは天候は表現できませんが、CGを組み合わせれば想像通りの背景が表現できます。極端に言えばCGがあればセットはほとんど必要ありません。
CG技術の進歩によってそれまでは実写映画は不可能といわれていた様々なファンタジー作品が映画化されるようになりました。あるいはアニメーションによってでしか表現できなかった作品もすべて実写化できるようになっています。
<演劇とは異なる映画による観客へのアプローチ>
演劇では舞台全体で演技が行われることがあります。その場合、観客はどこを観たらいいのかよくわかりません。しかし映画では注目させたい部分を「見せる」ことができます。これは映画というメディアの大切な特徴です。だから映画では「画面構成」、映画のフレームのどこに何を配置するのかが重要です。多くの監督が絵コンテを描くのはそのためです。
映画は演技者の体力に関係なく、何度でも同じ作品が上映されます。さらに演技者の年齢、天候、時代の変化など全く無関係に作品されます。演劇だと演技者は時間の経過とともに年齢が高くなって、演技の内容が変わっていきます。さらに機材さえあれば、どこでも上映できるという偏在性があります。とはいえ、テレビやビデオ、DVDといった媒体が登場するまでは、フィルムがなければ上映できず、上映のためには専門の機材操作者が必要でした。現在では、ビデオやDVDによって家庭で、あるいは車内で誰でも上映できるようになっています。それだけ再現性と偏在性がたかまったということです。
映画と演劇の比較
題材:
原作:三浦しをん『風が強く吹いている』(新潮社)
舞台:2009年初演
鈴木裕美演出、鈴木哲也脚本
アトエリ・ダンカン、イープラス企画・製作
映画:2009年公開
大森寿美男脚本・監督
【観客から見る演劇の特徴】
・臨場感
・現場性
・一回性
・相互性
・共有感(共犯性?)
・共振性
・時間的限定性
・高価格性
<臨場感ー現場性>
演劇ではたとえば強盗が目の前で生じているように、観客の目の前で物語が進行します。それは誰かから話を聞いたことでもなく、過去に生じた出来事でもありません。自分自身が直接体験していることです。演技者の演技を目の前で「生」で見聞きし、感じています。それはその現場にいるという感覚で、いわゆる「ライブ感」です。コンサートをテレビではなく、会場でみているのと同じような感覚でしょう。
<臨場感ー一回性>
歴史上の事件が1回だけの出来事であるのと同様に、その時その場で見聞きする舞台はそのとき1回きりの出来事です。二度と同じ事は生じません。つまり再現性がないということです。同じ舞台で、同じセリフで、同じ相手に舞台が行われているので、毎回同じ内容になっていると一般的には考えられます。しかし実際には公演日の天候、公演時間、演技者の体調、劇場の「雰囲気」、その人の演技者のやりとりなどによって舞台の内容が変化します。人間がやることなので、同じ舞台でも再現性はありません。
<臨場感ー相互性>
舞台は舞台の上に立っている役者によってつくられます。しかし実はその日の舞台は舞台の上の演技者だけによってつくられているわけではありません。舞台はそこで演じている演技者とそれを観ている観客との相互作用によって作られる、という側面があります。
たとえば観客が無反応であった場合、演技者はきちんと演技できない場合があります。『8時だよ。全員集合!」は舞台の上から観客に向かって声をかけています。もし観客が無反応であったら、おそらく話を先にすすめることができません。あの番組ではいかに観客を舞台に巻き込んでいくか、が重要になります。そして舞台の演技者と観客とが一緒になって舞台を作り上げていくのです。
<共有感>
演劇には特有のルールやお約束があります。劇団特有のルールがある場合もあります。観客の多くはそのことを出演者と共有することによって、より深く演劇を楽しむことが出来ます。
この共有感は舞台の特徴である一回性とも関係しています。観客と演技者がつくる雰囲気はその場でしか形成されません。
<共振性>
舞台の雰囲気は観客と演技者との相互作用だけでなく、その場の雰囲気を共有した観客同士でも形成されます。その場にいる観客同士の感情が共振して、舞台の雰囲気が作られるのです。
<時間的限定性>
映画の場合、公開期間中は毎日何回も放映されています。シネマコンプレックス形式の劇場では、複数の映画が同時に上映されます。観客はある程度自分の時間的な都合に合わせて、自分の好きな映画を鑑賞できます。
演劇の場合、公演の日時が映画よりも限定的で、人気のある劇団では自分の都合にあわせて演劇を鑑賞することができない場合があります。つまり演劇鑑賞にはそれなりに鑑賞したいという意欲が必要だということです。
<高価格性>
現時点では劇場の入場料金と演劇の鑑賞料金(入場料金)を比較した場合、座席によって差はありますが、演劇の鑑賞料金の方がはるかに高額になっています。一般に人は高額なものほど大切に扱いますが、同じことが鑑賞料金にもいえます。鑑賞料金の高い演劇の方が料金を支払った観客は集中して鑑賞します。特に自分で料金を支払った場合は、多少退屈な場面があっても必死になって鑑賞しようとします。
【映画は演劇の特徴を継承したのか?】
映画は演劇にかわる娯楽として一般庶民に普及しました。それでも映画は演劇の特徴を継承したのでしょうか? 演劇と映画を比較した時、映画独自のメディアとしての特徴が現れます。
<継承したものー共振性>
演劇と同様に映画館で上映される映画でも観客同士の共振性は存在します。ホラー映画やいわゆる泣ける映画では、恐怖が共振したり、悲しみが共振したりします。
劇場での感情がうまく共振して大きな感動を生むことがあれば、作品への評価が高まります。その結果、リピーターが増加したり、その観客が別の観客への広告塔になる可能性があります。テレビでのCMではこうした効果をねらった映像が利用されるようです。
<継承しないことー共有感>
観客同士の共振性はありますが、観客と演技者との共有感はありません。映画は観客に対する一方通行的なメディアだからです。ただし観客が一方的に出演者に対して共有感を持つことはあります。これはファン心情といってもいいでしょうし、あこがれの感情と言ってもいいかもしれません。観客が演技者に対して共有感を抱いた場合には、出演者と同じような行動や態度をとる場合があります。
<継承できないことー相互性>
映画はいわば録画したものを再生しているだけで、事件が目の前で起こっているというような「臨場感」はありません。特に相互性はありません。もし映画の出演者と観客が映画を通して相互に影響し合って変化したら、それはファンタジーです。映画の前で観客が反応してもそれに対して映画の中の出演者の演技が変わることはありません。映画撮影中も出演者は観客の反応を確かめることは不可能です。
<継承できないことー一回性>
映画は再現性が高いメディアです。何回目観ても、同じ演技、同じ内容です。状況によって内容が変わることはありません。ただし鑑賞する時の観客の心情によって、映画から受けるメッセージが変わることはあります。
<継承できないことー現場性>
観客の目の前で物語が進行するわけではないため、現場性はありません。そのまで自分が経験しているようなリアリティもありません。しかし映画は演劇のように「舞台」という場所に限定されません。そのために演劇とは異なった「リアリティ」や「ライブ感」を生み出すことが可能です。
<映画的リアリティの創造>
演劇は舞台でしか演技できません。しかし映画は舞台ではなく、私たちが生活している、私たちの「現場」を舞台にして撮影することができます。いわゆるロケーション撮影です。ロケ撮影では、舞台のように狭い空間ではなく、広い空間を利用することができます。自分たちの生活の場で撮影されるのですから、その現場を知っている観客には強い親近感が感じられます。このようにして映画では演劇とは異なった映画独特のリアリティが創造されます。
演劇では観客がそれが何かがわかればいいので、舞台にきちんとしたセットを組む必要はなく、絵でもかまいません。しかし映画ではそうした背景が使われることはまれです。映画は演劇とは異なった臨場感が必要だということです。
そういう視点から考えると、映画では「見せる」演出が重要で、演劇では「聞かせる」演出が重要になるということがわかります。
映画ではロケ撮影という手法によって臨場感やリアリティを創造するのですが、ロケ撮影は欠点の多い手法です。一番大きな問題は天候です。天候によっては撮影ができません。あるいは思ったような光や影ができないこともあります。このほか、撮影地によっては移動に時間がかかり、場合によっては宿泊も必要になります。出演者、スタッフが多い場合には、交通費や宿泊費、食費などでかなり費用がかかります。
こうした欠点のないのがセット撮影です。セットだけでは天候は表現できませんが、CGを組み合わせれば想像通りの背景が表現できます。極端に言えばCGがあればセットはほとんど必要ありません。
CG技術の進歩によってそれまでは実写映画は不可能といわれていた様々なファンタジー作品が映画化されるようになりました。あるいはアニメーションによってでしか表現できなかった作品もすべて実写化できるようになっています。
<演劇とは異なる映画による観客へのアプローチ>
演劇では舞台全体で演技が行われることがあります。その場合、観客はどこを観たらいいのかよくわかりません。しかし映画では注目させたい部分を「見せる」ことができます。これは映画というメディアの大切な特徴です。だから映画では「画面構成」、映画のフレームのどこに何を配置するのかが重要です。多くの監督が絵コンテを描くのはそのためです。
映画は演技者の体力に関係なく、何度でも同じ作品が上映されます。さらに演技者の年齢、天候、時代の変化など全く無関係に作品されます。演劇だと演技者は時間の経過とともに年齢が高くなって、演技の内容が変わっていきます。さらに機材さえあれば、どこでも上映できるという偏在性があります。とはいえ、テレビやビデオ、DVDといった媒体が登場するまでは、フィルムがなければ上映できず、上映のためには専門の機材操作者が必要でした。現在では、ビデオやDVDによって家庭で、あるいは車内で誰でも上映できるようになっています。それだけ再現性と偏在性がたかまったということです。
風が強く吹いている スペシャルエディション (初回限定生産) [DVD]
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映画の社会学2011第1講 序論 [映画の社会学]
映画の社会学 第1講 序論
イントロダクション
授業内容の説明、方法論の紹介
映画略史
<前半はシラバスの紹介>
<注意事項>
課題リポート(3回実施)。1回でもリポートを提出しなければ「失格:F評価」になります。また内容が悪ければ、3回すべて提出しても不合格(不可:D評価)になります。
大学の授業は授業料によって購入された商品。授業中に私語をする行為は、他人の商品を盗むのと同じだと見なされます。
私語=犯罪
私語をする学生は「犯罪者」。教室からの退室、履修の取り消しを要求します。
<映画略史>
映画の原点である原理は、1824年 イギリスのピーター・ロジェが発表した論文にあります。『うごくものの視覚的残像』という論文です。これは端的に言えば残像の原理です。人間の目は実際に見ているものよりも少し長い時間、その像を捉えています。そのため次々と別の像が現れているにもかかわらず、その新しい像を連続した像としてとらえます。こうして映画の歴史が幕開けすることになりました。
端的に言えば映画の原理はばらばらマンガの原理です。もう少し別の表現をすれば映画の原点はアニメーションにあります。
残像を利用した動画には当初、絵が用いられていましたが、写真技術の発展とともに絵の代わりに写真が用いられるようになり、それらを円筒の内側に貼り付けて回して見るという、ゾエトロープやブラキシノスコープが発明されました。
こうした写真技術の発展と同時に、写真を投影するという技術も発展していきます。さらに写真や投影に関わる様々な材質の開発がありました。こうして静止画を記録し、記録されたものを投影するという技術が発展することによって映画発明の下地が完成しました。
そして1895年フランスのリュミエール兄妹がシネマトグラフを発明し、発表しました。これが最初の映画です。これが全世界に広がっていきます。日本では1897年シネマトグラフが輸入公開されてました。シネマトグラフの発明からわずか2年で日本に映画が登場したのです。そして1899年には日本人による作品の制作・公開されます。
さてそもそも映画を英語では、motion pictureといいます。その他、アメリカではmovie , moving picture , film、イギリスではcinemaとも呼びます。motion pictureは、動きのあるうつされた写真という意味にとれます。ちなみに日本では、映画導入当時は「活動写真」と呼ばれていたが、次第に「映画」と呼ばれるようになる。動作やしぐさが描かれた写真というよりも、映し出された写真というイメージの方が強かったのでしょう。ここには文化的な相違が見られます。
motion pictureと呼ばれるのは、その発明過程に理由があります。前述のように映画は基本的にぱらぱらマンガやアニメーションと同じ原理で作られます。この仕組みがmotion pictureと呼ばれる理由です。
このぱらぱら漫画の原理を利用した動画は誰でも簡単に作成することができます。ビデオなど必要ありません。デジカメで1枚1枚写真を撮っていくことで動画に変換することができるのです。
。映画草創期においては、映画は無声映画であり、放映と同時に弁士が話をしたり、オーケストラが音楽を演奏したりした。その後、1926年にワーナー・ブラザーズがフィルムの放映にあわせて、あらかじめ録音してあったディスクを再生するという、トーキー映画が開始され、1931年にサウンドトラックのついたフィルムが発明され、ついにほぼ現在の映画と同じ作品が作られるようになります。ただしこの時期に撮影された作品は黒白作品です。
1935年に本格的なカラー映画が製作されるようになり、1950年に普及、以後、作品として何らかの意味がない限り、カラー作品が製作されるようになります。
日本に映画が導入されるのは、リュミエール兄弟がシネマトグラフを発明した時期とほとんど同じで、1987年です。今年は日本で映画が公開されてから110年こえました。当時は活動弁士と呼ばれる人が、リズム感あふれる口調で映像にあわせて話をしていました。1899年には日本人によって日本映画が作られます。その後、着実に日本映画は産業として成長していくことになりました。
映画が発明された後、映画はどのような場所で上映されたのでしょうか? もちろん発明当初、映画を専用に上映する場所、映画館はありません。そこで最初のうち、映画は劇場や見せ物小屋などで上映されました。映画館を英語ではmovie theaterというのはその名残でしょう。日本では歌舞伎が上演されている劇場でも公開されました。そして何かの都合で歌舞伎が上演できなくなったときのために、あらかじめ歌舞伎を撮影し、それを上映したそうです。
こうして映画が登場して普及するに従って、演劇が映画に駆逐されるようになります。演劇と映画を比較するといくつかの相違点が指摘できます。
・入場料委金の違い
・鑑賞機会の違い
・内容の親しみやすさ
そして映画は演劇に代わる娯楽としての地位を確立していきます。1910年以降、映画専用の建物「映画館」が都市部を中心にして建築されるようになり、歌舞伎などの演劇よりも安価に映画が上映されます。こうして日本映画は娯楽としての地位を確立することになりました。
日本映画が産業として絶頂期を迎えるのは、石原裕次郎が日活映画に出演した1958年頃です。この年の年間映画人口は約11億2000万人で映画館数は約7000館に上ります。製作された日本映画は504本、公開された海外映画は171本でした。しかしこれをピークに日本における映画産業は斜陽の時期に入り、1975年の年間映画人口は約1億7000万人、映画館数は2500館となります。製作された日本映画は356本、公開された海外映画は245本となり、この後、日本で公開される海外映画が日本映画を上回るようになりました。そしてついに1994年、年間映画人口は1億2000万人、映画館数は1700館まで減少する。製作された日本映画は251本、公開された海外映画は302本です。つまり映画産業は海外からの輸入作品に依存しています。
しかしこの後、映画の興行収入は1996年を底に上昇をはじめます。興行収入、映画館数ともに増加し、2004年には過去最高の興行収入を記録します。この背景にはシネマコンプレック形式の映画館の増加、映画製作方式の変換などがあります。
このように映画は演劇に変わる娯楽として登場し、庶民の娯楽として定着しました。それでは映画は演劇と比較してメディアとしてどのような特徴があるのでしょう。
イントロダクション
授業内容の説明、方法論の紹介
映画略史
<前半はシラバスの紹介>
<注意事項>
課題リポート(3回実施)。1回でもリポートを提出しなければ「失格:F評価」になります。また内容が悪ければ、3回すべて提出しても不合格(不可:D評価)になります。
大学の授業は授業料によって購入された商品。授業中に私語をする行為は、他人の商品を盗むのと同じだと見なされます。
私語=犯罪
私語をする学生は「犯罪者」。教室からの退室、履修の取り消しを要求します。
<映画略史>
映画の原点である原理は、1824年 イギリスのピーター・ロジェが発表した論文にあります。『うごくものの視覚的残像』という論文です。これは端的に言えば残像の原理です。人間の目は実際に見ているものよりも少し長い時間、その像を捉えています。そのため次々と別の像が現れているにもかかわらず、その新しい像を連続した像としてとらえます。こうして映画の歴史が幕開けすることになりました。
端的に言えば映画の原理はばらばらマンガの原理です。もう少し別の表現をすれば映画の原点はアニメーションにあります。
残像を利用した動画には当初、絵が用いられていましたが、写真技術の発展とともに絵の代わりに写真が用いられるようになり、それらを円筒の内側に貼り付けて回して見るという、ゾエトロープやブラキシノスコープが発明されました。
こうした写真技術の発展と同時に、写真を投影するという技術も発展していきます。さらに写真や投影に関わる様々な材質の開発がありました。こうして静止画を記録し、記録されたものを投影するという技術が発展することによって映画発明の下地が完成しました。
そして1895年フランスのリュミエール兄妹がシネマトグラフを発明し、発表しました。これが最初の映画です。これが全世界に広がっていきます。日本では1897年シネマトグラフが輸入公開されてました。シネマトグラフの発明からわずか2年で日本に映画が登場したのです。そして1899年には日本人による作品の制作・公開されます。
さてそもそも映画を英語では、motion pictureといいます。その他、アメリカではmovie , moving picture , film、イギリスではcinemaとも呼びます。motion pictureは、動きのあるうつされた写真という意味にとれます。ちなみに日本では、映画導入当時は「活動写真」と呼ばれていたが、次第に「映画」と呼ばれるようになる。動作やしぐさが描かれた写真というよりも、映し出された写真というイメージの方が強かったのでしょう。ここには文化的な相違が見られます。
motion pictureと呼ばれるのは、その発明過程に理由があります。前述のように映画は基本的にぱらぱらマンガやアニメーションと同じ原理で作られます。この仕組みがmotion pictureと呼ばれる理由です。
このぱらぱら漫画の原理を利用した動画は誰でも簡単に作成することができます。ビデオなど必要ありません。デジカメで1枚1枚写真を撮っていくことで動画に変換することができるのです。
。映画草創期においては、映画は無声映画であり、放映と同時に弁士が話をしたり、オーケストラが音楽を演奏したりした。その後、1926年にワーナー・ブラザーズがフィルムの放映にあわせて、あらかじめ録音してあったディスクを再生するという、トーキー映画が開始され、1931年にサウンドトラックのついたフィルムが発明され、ついにほぼ現在の映画と同じ作品が作られるようになります。ただしこの時期に撮影された作品は黒白作品です。
1935年に本格的なカラー映画が製作されるようになり、1950年に普及、以後、作品として何らかの意味がない限り、カラー作品が製作されるようになります。
日本に映画が導入されるのは、リュミエール兄弟がシネマトグラフを発明した時期とほとんど同じで、1987年です。今年は日本で映画が公開されてから110年こえました。当時は活動弁士と呼ばれる人が、リズム感あふれる口調で映像にあわせて話をしていました。1899年には日本人によって日本映画が作られます。その後、着実に日本映画は産業として成長していくことになりました。
映画が発明された後、映画はどのような場所で上映されたのでしょうか? もちろん発明当初、映画を専用に上映する場所、映画館はありません。そこで最初のうち、映画は劇場や見せ物小屋などで上映されました。映画館を英語ではmovie theaterというのはその名残でしょう。日本では歌舞伎が上演されている劇場でも公開されました。そして何かの都合で歌舞伎が上演できなくなったときのために、あらかじめ歌舞伎を撮影し、それを上映したそうです。
こうして映画が登場して普及するに従って、演劇が映画に駆逐されるようになります。演劇と映画を比較するといくつかの相違点が指摘できます。
・入場料委金の違い
・鑑賞機会の違い
・内容の親しみやすさ
そして映画は演劇に代わる娯楽としての地位を確立していきます。1910年以降、映画専用の建物「映画館」が都市部を中心にして建築されるようになり、歌舞伎などの演劇よりも安価に映画が上映されます。こうして日本映画は娯楽としての地位を確立することになりました。
日本映画が産業として絶頂期を迎えるのは、石原裕次郎が日活映画に出演した1958年頃です。この年の年間映画人口は約11億2000万人で映画館数は約7000館に上ります。製作された日本映画は504本、公開された海外映画は171本でした。しかしこれをピークに日本における映画産業は斜陽の時期に入り、1975年の年間映画人口は約1億7000万人、映画館数は2500館となります。製作された日本映画は356本、公開された海外映画は245本となり、この後、日本で公開される海外映画が日本映画を上回るようになりました。そしてついに1994年、年間映画人口は1億2000万人、映画館数は1700館まで減少する。製作された日本映画は251本、公開された海外映画は302本です。つまり映画産業は海外からの輸入作品に依存しています。
しかしこの後、映画の興行収入は1996年を底に上昇をはじめます。興行収入、映画館数ともに増加し、2004年には過去最高の興行収入を記録します。この背景にはシネマコンプレック形式の映画館の増加、映画製作方式の変換などがあります。
このように映画は演劇に変わる娯楽として登場し、庶民の娯楽として定着しました。それでは映画は演劇と比較してメディアとしてどのような特徴があるのでしょう。
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社会学入門2011 第13講 リポート [社会学入門]
社会学入門2011 第13講 第3回リポート
それでは第3回目のリポートの案内を行う。
課題作品
「オレンジデイズ」(第1話)
放送期間:2004年4月11日~2004年6月20日(全11話)
キャスト
結城櫂 : 妻夫木聡
萩尾沙絵 : 柴咲コウ
相田翔平 : 成宮寛貴
小沢茜 : 白石美帆
矢嶋啓太 : 瑛太
スタッフ
プロデュース : 植田博樹
脚本 : 北川悦吏子
演出 : 生野慈朗、土井裕泰、今井夏木
音楽 : 佐藤直紀
リポート課題:
「沙絵に対する櫂と啓太の対応」
沙絵に対して櫂と啓太がどのように対応したのか、特にどのように行動が変化したのかを記述する。そして二人の対応がなぜ変化したのか、その理由を社会学の理論を使って説明する。
<リポートの注意事項>
この課題は感想文でも作文でもない。小論文として書きなさい。
提出方法は電子メールあるいはMICCS
質問と提出先のアドレスが異なっているので注意すること。
いままでのリポートで手を抜いた人、思ったように書けなかった人は、挽回するように。
締め切りまで時間があると思うとあっという間に期限になる。計画的に日程を調整するように。
提出期限:8月1日17:00まで
提出期限に遅れた場合には、提出されなかったものとする。いかなる理由も受け付けない。
なお、リポートが提出されなかった場合には、「F」(不可)とする。
それでは第3回目のリポートの案内を行う。
課題作品
「オレンジデイズ」(第1話)
放送期間:2004年4月11日~2004年6月20日(全11話)
キャスト
結城櫂 : 妻夫木聡
萩尾沙絵 : 柴咲コウ
相田翔平 : 成宮寛貴
小沢茜 : 白石美帆
矢嶋啓太 : 瑛太
スタッフ
プロデュース : 植田博樹
脚本 : 北川悦吏子
演出 : 生野慈朗、土井裕泰、今井夏木
音楽 : 佐藤直紀
リポート課題:
「沙絵に対する櫂と啓太の対応」
沙絵に対して櫂と啓太がどのように対応したのか、特にどのように行動が変化したのかを記述する。そして二人の対応がなぜ変化したのか、その理由を社会学の理論を使って説明する。
<リポートの注意事項>
この課題は感想文でも作文でもない。小論文として書きなさい。
提出方法は電子メールあるいはMICCS
質問と提出先のアドレスが異なっているので注意すること。
いままでのリポートで手を抜いた人、思ったように書けなかった人は、挽回するように。
締め切りまで時間があると思うとあっという間に期限になる。計画的に日程を調整するように。
提出期限:8月1日17:00まで
提出期限に遅れた場合には、提出されなかったものとする。いかなる理由も受け付けない。
なお、リポートが提出されなかった場合には、「F」(不可)とする。
社会学入門2011 第12講 状況の定義の発展2 [社会学入門]
社会学入門2011 第12講 状況の定義の発展
<状況の定義>
状況の定義は一般には実際に生じている現実にそくして行われる。しかしときには自分が希望する状況を期待して定義する。
→定義した内容が現実になることがある。
<今回の教材>
「ハガネの女」(2話)
脚本:大石哲也
演出:唐木希浩、常廣丈太(テレビ朝日)
プロデュース:中込卓也・飯田爽(テレビ朝日)、
下山潤(トータルメディアコミュニケーション
2010年5月21日~7月2日 金曜23:15-24:15
<PTAの会長は?>
PTAの会長は「土地の有力者」という描き方は?
→ステレオタイプ
「35歳で結婚もできないなんて、女としてなんかあるんじゃないですか」
→ステレオタイプ
<定義した状況を外にだす?>
ステレオタイプや思い込みの多くは、個人のレベルで、個人の判断として維持されることが多い。そして状況の定義も、個人の判断として用いるだけで、外に出して表現されることは少ない。
自分が定義した内容を言葉で表現したらどうなるのか?
<表現された状況の定義>
レモンの母親の言葉:
「レモンは人の痛みのわかる優しい子になってほしい」
「聞き分けのいい、純粋な子」
先崎の言葉:
「担任に悪者扱いされたら、悪い子になっちゃうだろう」
ハガネと呼ばれる理由
<レッテル(ラベル)をはる>
小学校の担任が、ちょっとしたいたずらをした子どもを「悪い子」だとしかった。;レッテルを貼る
教師も生徒も「大きな問題になるほどの悪いことをした」という意識はない。
しかしまわりの人間は教師の言葉を信じてその生徒を「悪い子」として扱うようになる。;役割期待
本人は自分の意図とは無関係に、まわりの反応(役割期待)に対応して本当に「悪い子」として行動し始め(役割取得)、ついに本当に犯罪を犯した。
<ラベリング理論>
ラベリング理論は犯罪を代表とする社会規範から逸脱する行動を分析するために考え出された理論。
それまでの逸脱行動論では人間が逸脱行動するのは、本人の人格や本人の環境が主要な原因だと考えられた。犯罪者気質、貧困、離婚、劣悪な家庭環境など。
ラベリング理論では、逸脱者というラベルを貼られることによって、逸脱者として差異化されて扱われたり、ラベルを貼った人や周囲の反応によって逸脱行動が強化されることが明らかになった。
<悪者扱い>
権威のある人、権力のある人によって行われたラベリングの効果は高い。
学校の教師は教室では権威を持つ地位にいる。その役割として権力の行使がある。教室の中で教師が発する言葉には権力が含まれる。
生徒同士でラベルをはりあうよりも、教師が生徒にラベルを貼る方がはるかに効果がある。
数年前の福岡の小学校で生じたいじめ事件の発端は教師によるラベリングだった。
<ハガネの女>
先崎によれば、芳賀稲子が「ハガネ」と呼ばれるようになったのは、剣道の試合の後、と説明された。しかしその前に「ハガネ」と呼ばれていた可能性は否定できない。
芳賀稲子は「ハガネ」と呼ばれることによって、それにふさわしい行動をするようになったか、少なくてもハガネの女としての行動を洗練させた。
ハガネにとってはラベリングが人生においてプラスに働いた。
→教師の期待によって生徒の成績が向上することを教育心理学では「ピグマリオン効果」と呼ぶ。
<レモンはいい子?>
「優しい子」になってほしいという母親の期待。
「町の有力者の娘」というラベル。
「プリンセス」というあだな。
レモンはこうしたラベルにふさわしい態度や行動を行うように演技する。こうした演技を一部の生徒は「ぶりっこ」だとして拒否反応を示す。
レモン自身は・・・ラベルと自己分析とのギャップに強いストレスを感じている。→フラストレーションに発展。
<ラベリングの効果>
ラベリングによっていったん定着したイメージはなかなか払拭できない。
→昔の友人を思い出すきっかけはたいていがラベリングされたイメージ。
マイナスイメージになるラベル、自分がいやなラベルはできるだけ早いうちに消しておかなければ定着してしまう。
→削除するか、上書きする
<予言の自己成就>
ラベリングでは個人に貼られたラベル通りの役割を取得する、という理論であった。これは個人の役割にかかわること。しかし事柄に関しても同じことが生じる。
ラベリングと同様に発言された言葉通りになってしまうこと=予言の自己成就
→銀行の倒産、恋愛のうわさ
発言されてしまったためにその内容とは反対のことが生じる=予言の自己破壊
→マルクスによる資本主義崩壊の予言
<状況の定義>
状況の定義は一般には実際に生じている現実にそくして行われる。しかしときには自分が希望する状況を期待して定義する。
→定義した内容が現実になることがある。
<今回の教材>
「ハガネの女」(2話)
脚本:大石哲也
演出:唐木希浩、常廣丈太(テレビ朝日)
プロデュース:中込卓也・飯田爽(テレビ朝日)、
下山潤(トータルメディアコミュニケーション
2010年5月21日~7月2日 金曜23:15-24:15
<PTAの会長は?>
PTAの会長は「土地の有力者」という描き方は?
→ステレオタイプ
「35歳で結婚もできないなんて、女としてなんかあるんじゃないですか」
→ステレオタイプ
<定義した状況を外にだす?>
ステレオタイプや思い込みの多くは、個人のレベルで、個人の判断として維持されることが多い。そして状況の定義も、個人の判断として用いるだけで、外に出して表現されることは少ない。
自分が定義した内容を言葉で表現したらどうなるのか?
<表現された状況の定義>
レモンの母親の言葉:
「レモンは人の痛みのわかる優しい子になってほしい」
「聞き分けのいい、純粋な子」
先崎の言葉:
「担任に悪者扱いされたら、悪い子になっちゃうだろう」
ハガネと呼ばれる理由
<レッテル(ラベル)をはる>
小学校の担任が、ちょっとしたいたずらをした子どもを「悪い子」だとしかった。;レッテルを貼る
教師も生徒も「大きな問題になるほどの悪いことをした」という意識はない。
しかしまわりの人間は教師の言葉を信じてその生徒を「悪い子」として扱うようになる。;役割期待
本人は自分の意図とは無関係に、まわりの反応(役割期待)に対応して本当に「悪い子」として行動し始め(役割取得)、ついに本当に犯罪を犯した。
<ラベリング理論>
ラベリング理論は犯罪を代表とする社会規範から逸脱する行動を分析するために考え出された理論。
それまでの逸脱行動論では人間が逸脱行動するのは、本人の人格や本人の環境が主要な原因だと考えられた。犯罪者気質、貧困、離婚、劣悪な家庭環境など。
ラベリング理論では、逸脱者というラベルを貼られることによって、逸脱者として差異化されて扱われたり、ラベルを貼った人や周囲の反応によって逸脱行動が強化されることが明らかになった。
<悪者扱い>
権威のある人、権力のある人によって行われたラベリングの効果は高い。
学校の教師は教室では権威を持つ地位にいる。その役割として権力の行使がある。教室の中で教師が発する言葉には権力が含まれる。
生徒同士でラベルをはりあうよりも、教師が生徒にラベルを貼る方がはるかに効果がある。
数年前の福岡の小学校で生じたいじめ事件の発端は教師によるラベリングだった。
<ハガネの女>
先崎によれば、芳賀稲子が「ハガネ」と呼ばれるようになったのは、剣道の試合の後、と説明された。しかしその前に「ハガネ」と呼ばれていた可能性は否定できない。
芳賀稲子は「ハガネ」と呼ばれることによって、それにふさわしい行動をするようになったか、少なくてもハガネの女としての行動を洗練させた。
ハガネにとってはラベリングが人生においてプラスに働いた。
→教師の期待によって生徒の成績が向上することを教育心理学では「ピグマリオン効果」と呼ぶ。
<レモンはいい子?>
「優しい子」になってほしいという母親の期待。
「町の有力者の娘」というラベル。
「プリンセス」というあだな。
レモンはこうしたラベルにふさわしい態度や行動を行うように演技する。こうした演技を一部の生徒は「ぶりっこ」だとして拒否反応を示す。
レモン自身は・・・ラベルと自己分析とのギャップに強いストレスを感じている。→フラストレーションに発展。
<ラベリングの効果>
ラベリングによっていったん定着したイメージはなかなか払拭できない。
→昔の友人を思い出すきっかけはたいていがラベリングされたイメージ。
マイナスイメージになるラベル、自分がいやなラベルはできるだけ早いうちに消しておかなければ定着してしまう。
→削除するか、上書きする
<予言の自己成就>
ラベリングでは個人に貼られたラベル通りの役割を取得する、という理論であった。これは個人の役割にかかわること。しかし事柄に関しても同じことが生じる。
ラベリングと同様に発言された言葉通りになってしまうこと=予言の自己成就
→銀行の倒産、恋愛のうわさ
発言されてしまったためにその内容とは反対のことが生じる=予言の自己破壊
→マルクスによる資本主義崩壊の予言
社会学入門2011 第11講 状況の定義の発展1 [社会学入門]
社会学入門2011 第11講 状況の定義の発展
状況の定義(確認)
「人が自分の置かれた状況を認識し、その意味を解釈すること」
状況の定義は、期待された役割を推測し、適切な役割を演技するために必要な条件。
→この場合、状況の定義は「一般化された他者」の視点から行われる。そうでなければ適切な役割を取得できない。
状況の定義は社会化の中で習得され、同じ社会に所属するメンバーあるいは文化を共有するメンバーが同じ状況の定義を行う場合がある。(第7講の内容)
他者の状況を定義
役割期待を推測したり、役割取得を行う場合には、「自分の置かれた状況」を定義する。しかし定義の対象は自分だけではない。
他者の状況の定義は、相手の地位、場所、時間、一緒にいる人などをもとに、一般化された他者の視点から行われる。この場合、対象となる他者と自分とはふつうは、「同じ」一般化された他者の視点である。
今回の教材
「ハガネの女」(第1話)来週は第2話
脚本:大石哲也
演出:唐木希浩、常廣丈太(テレビ朝日)
プロデュース:中込卓也・飯田爽(テレビ朝日)、下山潤(トータルメディアコミュニケーション
2010年5月21日~7月2日 金曜23:15-24:15
ハガネと会田優介との出会い
優介はスーパーのパン屋でパンに指を突っ込んでいる。とめたハガネに「くそババァ~」と言う。
【ハガネの状況の定義】
小学生の男の子が販売中のパン(=商品)にいたずらをしている(故意に破壊している)。
→一般的には器物損壊罪にあたる。子どもとはいえ道徳的に赦されない行為。
→行為をやめさせ、悪い行為をしているということを自覚させなければならない(もと教師の判断)。
優介の母親の対応
マイクで呼ばれた母親は、まわりの人に向かって言う。
「警察を呼んでください。この人が子どもに暴力をふるうんです」
【母親の状況の定義】
自分の息子は決して悪いことはしない。だから手をつかんでいる女が子どもに悪さをしているに違いない。
→母親は子どもに全幅の信頼を置いている。
警備室にて
ビデオでチェックした後も、母親の態度のかたくなさは変わらない。
ハガネは子どもに(おそらく母親にも)謝罪を求めている。
→母親は決して謝らず、弁償だけしようとする。
「この子は意味もなくそんなことをする子じゃありません。きっとそれなりの理由があるんです。」(母親のセリフ)
状況の定義→思い込み
自分の子どもを客観的に分析できず、「自分の子に限って悪いことはしない」と思い込んでいる母親と、母親をだまし続ける悪い子どもという印象が構築される。
印象を強化する場面に直面して「固定化された思い込み」が構築される。
印象を強化する出来事
みんなに馬鹿にされいじめられる広。その広に優介が絡む。
優介の家の家庭訪問。母親は優介だけが広を助けていると主張(学年主任は「優介は広の命綱」と言っている)。家庭訪問の帰りに、優介は広につばをかけて「死んでください」と言っている。
トイレで男子に広がいじめられている。優介は突き飛ばして「やり返してみろよ。ばーか」。
職員室のハガネの机の引き出しからウサギの死体が出てくる。教室の机の引き出しをチェックした後、優介と視線があう。
服装チェックの後、トイレ掃除になった班の子どもが広をいじめる。優介が怒った顔でハガネをみる。
優介と広が3年生の女の子に怪我をさせたと連絡。優介は関与をかたくなに否定した。
なぜ先生は優介を悪者だと決めつけるんですか?
いったん状況が定義されると人間はその枠組みで人間の行動を観察するようになる。そしてその枠組みが強化されるような出来事に遭遇すると、それ以外の枠組みでは人を判断できないようになる。これを「思い込み」という。
→ハガネは優介=悪いいじめっ子という枠組みから抜け出せない=決めつけ
思い込みは一般に「個人」のレベルで生じる。
ステレオタイプ
複数の人間が同じ思い込みをするとき、その思い込みの枠組みを「ステレオタイプ」という。
→多くの人が共通して持っている決まり切ったものの見方。
このドラマはステレオタイプな枠組みを使っているため、多くの視聴者がハガネの思い込みを理解できる。
→パンに指を突っ込む子ども=悪い子ども
→友だちをいじめる行為=悪い行為
→「うちの子に限って」という母親
ステレオタイプから抜け出す?
人間は原則として「思い込み」をするということを自覚する。
真実を知らなければステレオタイプから抜け出せない。
真実を知っても、真実を真実だと信じられないことがある。
自分が信頼している(信じている)人間から真実を知らされると真実だと信じる可能性が高い。
思い込み=偏見 とはかぎらない。
偏見もステレオタイプのひとつ。
状況の定義(確認)
「人が自分の置かれた状況を認識し、その意味を解釈すること」
状況の定義は、期待された役割を推測し、適切な役割を演技するために必要な条件。
→この場合、状況の定義は「一般化された他者」の視点から行われる。そうでなければ適切な役割を取得できない。
状況の定義は社会化の中で習得され、同じ社会に所属するメンバーあるいは文化を共有するメンバーが同じ状況の定義を行う場合がある。(第7講の内容)
他者の状況を定義
役割期待を推測したり、役割取得を行う場合には、「自分の置かれた状況」を定義する。しかし定義の対象は自分だけではない。
他者の状況の定義は、相手の地位、場所、時間、一緒にいる人などをもとに、一般化された他者の視点から行われる。この場合、対象となる他者と自分とはふつうは、「同じ」一般化された他者の視点である。
今回の教材
「ハガネの女」(第1話)来週は第2話
脚本:大石哲也
演出:唐木希浩、常廣丈太(テレビ朝日)
プロデュース:中込卓也・飯田爽(テレビ朝日)、下山潤(トータルメディアコミュニケーション
2010年5月21日~7月2日 金曜23:15-24:15
ハガネと会田優介との出会い
優介はスーパーのパン屋でパンに指を突っ込んでいる。とめたハガネに「くそババァ~」と言う。
【ハガネの状況の定義】
小学生の男の子が販売中のパン(=商品)にいたずらをしている(故意に破壊している)。
→一般的には器物損壊罪にあたる。子どもとはいえ道徳的に赦されない行為。
→行為をやめさせ、悪い行為をしているということを自覚させなければならない(もと教師の判断)。
優介の母親の対応
マイクで呼ばれた母親は、まわりの人に向かって言う。
「警察を呼んでください。この人が子どもに暴力をふるうんです」
【母親の状況の定義】
自分の息子は決して悪いことはしない。だから手をつかんでいる女が子どもに悪さをしているに違いない。
→母親は子どもに全幅の信頼を置いている。
警備室にて
ビデオでチェックした後も、母親の態度のかたくなさは変わらない。
ハガネは子どもに(おそらく母親にも)謝罪を求めている。
→母親は決して謝らず、弁償だけしようとする。
「この子は意味もなくそんなことをする子じゃありません。きっとそれなりの理由があるんです。」(母親のセリフ)
状況の定義→思い込み
自分の子どもを客観的に分析できず、「自分の子に限って悪いことはしない」と思い込んでいる母親と、母親をだまし続ける悪い子どもという印象が構築される。
印象を強化する場面に直面して「固定化された思い込み」が構築される。
印象を強化する出来事
みんなに馬鹿にされいじめられる広。その広に優介が絡む。
優介の家の家庭訪問。母親は優介だけが広を助けていると主張(学年主任は「優介は広の命綱」と言っている)。家庭訪問の帰りに、優介は広につばをかけて「死んでください」と言っている。
トイレで男子に広がいじめられている。優介は突き飛ばして「やり返してみろよ。ばーか」。
職員室のハガネの机の引き出しからウサギの死体が出てくる。教室の机の引き出しをチェックした後、優介と視線があう。
服装チェックの後、トイレ掃除になった班の子どもが広をいじめる。優介が怒った顔でハガネをみる。
優介と広が3年生の女の子に怪我をさせたと連絡。優介は関与をかたくなに否定した。
なぜ先生は優介を悪者だと決めつけるんですか?
いったん状況が定義されると人間はその枠組みで人間の行動を観察するようになる。そしてその枠組みが強化されるような出来事に遭遇すると、それ以外の枠組みでは人を判断できないようになる。これを「思い込み」という。
→ハガネは優介=悪いいじめっ子という枠組みから抜け出せない=決めつけ
思い込みは一般に「個人」のレベルで生じる。
ステレオタイプ
複数の人間が同じ思い込みをするとき、その思い込みの枠組みを「ステレオタイプ」という。
→多くの人が共通して持っている決まり切ったものの見方。
このドラマはステレオタイプな枠組みを使っているため、多くの視聴者がハガネの思い込みを理解できる。
→パンに指を突っ込む子ども=悪い子ども
→友だちをいじめる行為=悪い行為
→「うちの子に限って」という母親
ステレオタイプから抜け出す?
人間は原則として「思い込み」をするということを自覚する。
真実を知らなければステレオタイプから抜け出せない。
真実を知っても、真実を真実だと信じられないことがある。
自分が信頼している(信じている)人間から真実を知らされると真実だと信じる可能性が高い。
思い込み=偏見 とはかぎらない。
偏見もステレオタイプのひとつ。
ハガネの女 season 2 (吉瀬美智子 出演) [DVD]
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社会学入門2011 第10講 交換理論 [社会学入門]
社会学入門2011 第10講 交換理論
1987年国鉄(国営鉄道)が分割民営化された。民営化されたJR東海が最初に制作したのが「シンデレラ・エクスプレス」シリーズである。1987年放映されたCM「シンデレラ・エクスプレス」はユーミンのアルバム『DA・DI・DA』に収録された「シンデレラ・エクスプレス」という曲をモチーフにしている。
当時、東京発新大阪行きの最終新幹線は、東京21時発新大阪0時着であり、0時着ということをもとにして乗客をシンデレラに見立てて制作された。そしてこのCMが話題になるのと同時に実際に東京発の新幹線で別れを惜しむ恋人たちの姿が見られることを報道されるようになり、さらに話題になる。1992年、ダイヤ変更によりふたたび「シンデレラ・エクスプレス」をモチーフにしたCMが制作され、さらにその間に「クリスマス・エクスプレス」シリーズのCMも話題を呼び、遠距離恋愛が注目を集めた。
今回の教材はそうした遠距離恋愛が話題になっていた1991年に放映されたドラマを対象とする。
「逢いたい時にあなたはいない」(第1話)22.5% 平均視聴率22.0%
脚本:伴一彦
演出:本間欧彦・木村達昭・石坂理江子
プロデュース:亀山千広
1991年10月7日~12月16日放映 月9ドラマ
さて今回のテーマは「遠距離恋愛は続くのか?」ということである。遠距離恋愛についてはさまざまな専門家がHPで議論している。そのなかでポイントだと思われる点は以下の2点。
1.距離感の問題
物理的距離、時間的距離、心理的距離などいろいろな距離がある。遠距離恋愛という言葉通り、この距離感が遠いのが遠距離恋愛になる。
ドラマのなかでは、はじめての長距離電話で「声はこんなに近いのに・・・」という心の声がナレーションされている。
2.接触頻度の問題
人間関係の維持には接触頻度が大きな要因になっている。遠距離恋愛ではこの接触頻度が減少するが、これがどのように影響するのか。
こうした問題について、まずはよく利用される心理学の理論からの説明を紹介してみたい。
<ボッサードの法則>
遠距離恋愛でよく紹介されるのはボッサードの法則である。
アメリカの心理学者ボッサードが発見した法則。
ボッサードが婚約中の5000組を調査したところ(1932年)、婚姻届を婚姻届を出した時点で、12%カップルがすでに同棲していたことが判明。さらに、1/3のカップルが5ブロック以内の範囲に居住し、ほとんどのカップルが電車で数駅の範囲内に住んでいたことがわかった
この調査結果から次のような法則が発見される。
「カップルを隔てる距離と、結婚までに至る人数は反比例する」(2人の距離が離れているほど結婚にたどり着く確率は低い)
この結果を一歩進めて、
「男女間の物理的な距離が近いほど心理的な距離は狭まる」
という理論を導きだした。
ボッサードの法則を遠距離恋愛に照らし合わせると、遠距離恋愛は男女間の心理的な距離をひろげることがわかる。
→二人を結びつける心理的な力が弱くなる。
→別れる力の方が強くなる。
<単純接触効果>
アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスが論文にまとめた理論(1968年)。
よく会う人や繰り返し聴く音楽を好きになっていくように、何度も見たり聞いたりすると次第によい感情が起こるようになる。これは見たり聞いたりすることでつくられる潜在意識が印象評価に影響することによる。
このように、第一印象が悪くない場合、繰り返し接触することによって好意度や印象が高まる。これを単純接触効果という。
ドラマのテーマ曲の人気が高まるのも広告に効果があるのも、この「単純接触効果」によるものだと考えられる。
<熟知性の原則>
じっくりと話を聞く、一緒の出かけるなど相手のことを深く知るようになるにつれて、相手を好きになるという原則。
→単純接触効果を人に限定して適用した場合の原則
人がものや他人に対して好意をもつためには接触頻度が重要。
<単純接触効果>と<熟知性の原則>から接触頻度(回数)と人間の好意度に正の相関があることがわかる。
→会う回数の多い人を好きになる
→会う回数が少なくなると好意度が低くなる。
心理学の地検から距離と接触頻度について次のような原則が導き出される。
恋人同士が離れて暮らすようになり(遠距離)、会う機会が少なくなると(接触頻度の減少)、お互いの好意度が低くなり、別れへと至る。
→遠距離恋愛ではこの原則が実現する可能性(確率)がきわめて高くなる。
それでは遠距離恋愛について社会学ではどのように考えることができるか?
遠距離恋愛を社会学的に分析するとすれば、「交換理論」によって分析することができる。
社会で行われる「交換」には
→経済的交換
→社会的交換
という大きく2種類がある。
<経済的交換>
商品の購入(貨幣→物品)
労働(労働→賃金)
<社会的交換>
会話、挨拶
祝儀と祝儀返し
感情の交換(愛など)
<社会的交換成立の条件>
1.他者と交換しなければ目的が達成できない場合
→他者の所有物を入手する場合
→他者の愛を勝ち取るために贈与や奉仕をする
2.目的達成を促進する手段として有効な場合
→キビ団子と交換で家来を得て、鬼退治する
→出世のために上司に贈り物をする
<経済的交換成立の条件>
1.等価性
:商品価値は変化するが、「等価」と考えられる(世間が妥当だと捉える)価値と交換すること
2.双務性
:相互に債務が課されていること(契約的債務)
等価性と双務性を合わせて「互酬性」と呼ぶ。
<社会的交換における互酬性>
経済的な互酬性を社会的交換にあてはめることはできるだろうか。
社会的交換では等価性も双務性も確保されない場合がある。
社会的交換で行われる交換の価値は貨幣のような、世間の誰もが妥当だと捉える基準がない。
社会的交換における責務は「契約的責務」ではなく、「道徳的責務」になる。つまり契約のような客観的基準ではなく、道徳という個人の価値観である。
さて社会的交換成立によって何が生じるのか。社会的交換が成立することによって、「人間関係が大きく変化する」。しかしながらそこには互酬性の確保が必要になる。
もし互酬性が確保できない人間関係の場合、非対称の人間関係になある。たとえば、地位の差、一方的な贈与の関係、偏った人間関係などである。
対等な人間関係を成立し、それを維持するためには互酬性を確保した交換が必要である。つまり交換は人間関係維持の条件なのかもしれない。
それでは遠距離恋愛を交換理論で考えてみたい。遠距離恋愛の多くは物理的に距離がある。したがって遠距離恋愛中に接触するためには(会うためには)、お互いにあるいは一方が大きなコストを支払わなければならない。つまり
恋愛関係の維持=接触のためのコスト
という関係が成り立つ。このコストを誰が支払うのか、遠距離恋愛では「互酬性」の確保がポイントになる。
<コストに合う価値があるのか>
何度も高いコストを払って相手に会うことに見合う「何らかの報酬」(等価な報酬)があれば、遠距離恋愛であっても人間関係が維持される。ただしそれには互酬性の確保が前提となる。もし一方が全面的にコストを払うという形態では報酬に等価性が維持されない可能性がある。
<会わないこともコスト?>
遠距離恋愛では「相手に会わない」(接触しない)ということもコストになる。長い間、会わないとコストが蓄積される。
→連絡し合うということが「報酬」になる。
→電話、手紙でのやりとりも「交換された報酬」になる。
→ただし以前は電話も手紙もコストがかかった。
(現在は無料の通信手段がある)
☆こまめに連絡を取ることで、会わないコストに対する等価な報酬を獲得できる。
遠距離恋愛において、「互酬性の確保」を前提とした「交換」関係が成立しないとき、恋愛関係は破綻する。
ドラマの主人公が札幌空港で感じた「せつなさ」はなんだろう?
1987年国鉄(国営鉄道)が分割民営化された。民営化されたJR東海が最初に制作したのが「シンデレラ・エクスプレス」シリーズである。1987年放映されたCM「シンデレラ・エクスプレス」はユーミンのアルバム『DA・DI・DA』に収録された「シンデレラ・エクスプレス」という曲をモチーフにしている。
当時、東京発新大阪行きの最終新幹線は、東京21時発新大阪0時着であり、0時着ということをもとにして乗客をシンデレラに見立てて制作された。そしてこのCMが話題になるのと同時に実際に東京発の新幹線で別れを惜しむ恋人たちの姿が見られることを報道されるようになり、さらに話題になる。1992年、ダイヤ変更によりふたたび「シンデレラ・エクスプレス」をモチーフにしたCMが制作され、さらにその間に「クリスマス・エクスプレス」シリーズのCMも話題を呼び、遠距離恋愛が注目を集めた。
今回の教材はそうした遠距離恋愛が話題になっていた1991年に放映されたドラマを対象とする。
「逢いたい時にあなたはいない」(第1話)22.5% 平均視聴率22.0%
脚本:伴一彦
演出:本間欧彦・木村達昭・石坂理江子
プロデュース:亀山千広
1991年10月7日~12月16日放映 月9ドラマ
さて今回のテーマは「遠距離恋愛は続くのか?」ということである。遠距離恋愛についてはさまざまな専門家がHPで議論している。そのなかでポイントだと思われる点は以下の2点。
1.距離感の問題
物理的距離、時間的距離、心理的距離などいろいろな距離がある。遠距離恋愛という言葉通り、この距離感が遠いのが遠距離恋愛になる。
ドラマのなかでは、はじめての長距離電話で「声はこんなに近いのに・・・」という心の声がナレーションされている。
2.接触頻度の問題
人間関係の維持には接触頻度が大きな要因になっている。遠距離恋愛ではこの接触頻度が減少するが、これがどのように影響するのか。
こうした問題について、まずはよく利用される心理学の理論からの説明を紹介してみたい。
<ボッサードの法則>
遠距離恋愛でよく紹介されるのはボッサードの法則である。
アメリカの心理学者ボッサードが発見した法則。
ボッサードが婚約中の5000組を調査したところ(1932年)、婚姻届を婚姻届を出した時点で、12%カップルがすでに同棲していたことが判明。さらに、1/3のカップルが5ブロック以内の範囲に居住し、ほとんどのカップルが電車で数駅の範囲内に住んでいたことがわかった
この調査結果から次のような法則が発見される。
「カップルを隔てる距離と、結婚までに至る人数は反比例する」(2人の距離が離れているほど結婚にたどり着く確率は低い)
この結果を一歩進めて、
「男女間の物理的な距離が近いほど心理的な距離は狭まる」
という理論を導きだした。
ボッサードの法則を遠距離恋愛に照らし合わせると、遠距離恋愛は男女間の心理的な距離をひろげることがわかる。
→二人を結びつける心理的な力が弱くなる。
→別れる力の方が強くなる。
<単純接触効果>
アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスが論文にまとめた理論(1968年)。
よく会う人や繰り返し聴く音楽を好きになっていくように、何度も見たり聞いたりすると次第によい感情が起こるようになる。これは見たり聞いたりすることでつくられる潜在意識が印象評価に影響することによる。
このように、第一印象が悪くない場合、繰り返し接触することによって好意度や印象が高まる。これを単純接触効果という。
ドラマのテーマ曲の人気が高まるのも広告に効果があるのも、この「単純接触効果」によるものだと考えられる。
<熟知性の原則>
じっくりと話を聞く、一緒の出かけるなど相手のことを深く知るようになるにつれて、相手を好きになるという原則。
→単純接触効果を人に限定して適用した場合の原則
人がものや他人に対して好意をもつためには接触頻度が重要。
<単純接触効果>と<熟知性の原則>から接触頻度(回数)と人間の好意度に正の相関があることがわかる。
→会う回数の多い人を好きになる
→会う回数が少なくなると好意度が低くなる。
心理学の地検から距離と接触頻度について次のような原則が導き出される。
恋人同士が離れて暮らすようになり(遠距離)、会う機会が少なくなると(接触頻度の減少)、お互いの好意度が低くなり、別れへと至る。
→遠距離恋愛ではこの原則が実現する可能性(確率)がきわめて高くなる。
それでは遠距離恋愛について社会学ではどのように考えることができるか?
遠距離恋愛を社会学的に分析するとすれば、「交換理論」によって分析することができる。
社会で行われる「交換」には
→経済的交換
→社会的交換
という大きく2種類がある。
<経済的交換>
商品の購入(貨幣→物品)
労働(労働→賃金)
<社会的交換>
会話、挨拶
祝儀と祝儀返し
感情の交換(愛など)
<社会的交換成立の条件>
1.他者と交換しなければ目的が達成できない場合
→他者の所有物を入手する場合
→他者の愛を勝ち取るために贈与や奉仕をする
2.目的達成を促進する手段として有効な場合
→キビ団子と交換で家来を得て、鬼退治する
→出世のために上司に贈り物をする
<経済的交換成立の条件>
1.等価性
:商品価値は変化するが、「等価」と考えられる(世間が妥当だと捉える)価値と交換すること
2.双務性
:相互に債務が課されていること(契約的債務)
等価性と双務性を合わせて「互酬性」と呼ぶ。
<社会的交換における互酬性>
経済的な互酬性を社会的交換にあてはめることはできるだろうか。
社会的交換では等価性も双務性も確保されない場合がある。
社会的交換で行われる交換の価値は貨幣のような、世間の誰もが妥当だと捉える基準がない。
社会的交換における責務は「契約的責務」ではなく、「道徳的責務」になる。つまり契約のような客観的基準ではなく、道徳という個人の価値観である。
さて社会的交換成立によって何が生じるのか。社会的交換が成立することによって、「人間関係が大きく変化する」。しかしながらそこには互酬性の確保が必要になる。
もし互酬性が確保できない人間関係の場合、非対称の人間関係になある。たとえば、地位の差、一方的な贈与の関係、偏った人間関係などである。
対等な人間関係を成立し、それを維持するためには互酬性を確保した交換が必要である。つまり交換は人間関係維持の条件なのかもしれない。
それでは遠距離恋愛を交換理論で考えてみたい。遠距離恋愛の多くは物理的に距離がある。したがって遠距離恋愛中に接触するためには(会うためには)、お互いにあるいは一方が大きなコストを支払わなければならない。つまり
恋愛関係の維持=接触のためのコスト
という関係が成り立つ。このコストを誰が支払うのか、遠距離恋愛では「互酬性」の確保がポイントになる。
<コストに合う価値があるのか>
何度も高いコストを払って相手に会うことに見合う「何らかの報酬」(等価な報酬)があれば、遠距離恋愛であっても人間関係が維持される。ただしそれには互酬性の確保が前提となる。もし一方が全面的にコストを払うという形態では報酬に等価性が維持されない可能性がある。
<会わないこともコスト?>
遠距離恋愛では「相手に会わない」(接触しない)ということもコストになる。長い間、会わないとコストが蓄積される。
→連絡し合うということが「報酬」になる。
→電話、手紙でのやりとりも「交換された報酬」になる。
→ただし以前は電話も手紙もコストがかかった。
(現在は無料の通信手段がある)
☆こまめに連絡を取ることで、会わないコストに対する等価な報酬を獲得できる。
遠距離恋愛において、「互酬性の確保」を前提とした「交換」関係が成立しないとき、恋愛関係は破綻する。
ドラマの主人公が札幌空港で感じた「せつなさ」はなんだろう?
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- メディア: DVD