映画の社会学2011第8講 批評的方法(2)原作と映画 [映画の社会学]
映画の社会学 第8講 批評的方法(2) 原作と映画
今回も課題作品は『阪急電車』です。
<構成の変更>
映画では小説とは異なった構成になっています。小説では何の前触れもなく、宝塚駅で征志が電車に乗る物語本編から始まっています。しかし映画ではタイトルバック前に登場人物(翔子、時江、悦子、ミサ、康江、圭一、美帆、ショウコ)の紹介シーンがあります。
メインの主人公が決まっていない、複数の登場人物を描いたドラマを群像劇と言います。こうした群像劇では、観客が登場人物について理解しやすいように、冒頭で登場人物の紹介を行うことがあります。映画やドラマのように顔を視覚的に認識しやすいメディアでは、小説のように文字だけで紹介されるよりも一挙に紹介した方が観客が登場人物を把握しやすいと考えられる。小説とは異なった手法で登場人物を認識させるということです。ちなみに最初の翔子以外の紹介シーンには小説に書かれていない部分が追加されています。これは登場人物のキャラの特徴を際立たせるためで、やはり観客への配慮が伺えます。
<構成を変更した他の映画の例>
『いま、会いにゆきます』(2004):
冒頭に息子佑司の18歳の誕生日のシーン、そして最後にヒロイン澪からみた物語が加えられています。一方、原作は全編主人公巧みの視点から書かれていました。
その他
→澪が子どものために絵本をつくる、佑司のために12年分のケーキが予約されるなどのエピソードを加えて、澪の愛が表現されています。
<時間軸を変更した映画作品>
多くの小説が「過去→現在」という枠組みで物語が構成されています。それに対して『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)では、大枠としては現在が過去をサンドウィッチするように構成されていますが、実際には現在と過去の自生が「場所」によって交互に、交差的に描かれて、二つの時間の結びつきの強さが強調されています。この作品では「テープ」というアイテムによっても現在と過去が結ばれていました。
<追加されたシーン1>
タイトルバック前の紹介シーン:
ショウコが小林駅横の小道で泣いている
中間の季節が変化することを示すシーンの直前:
ショウコが「誰か助けて」とつぶやいている。康江がケーキバイキングに行っている。
往路甲東園駅付近の車内:
自分と同じ講義を受けている美帆に興味を持った圭一。美帆に避けられたとき「べつにこわないし」とつぶやく。
<シーンを追加する理由1>
映画は小説のように心情を表現することが困難です(ナレーションという方法はあるが不自然)。登場人物の正確を明確に表現するためにシーンを追加することがあります。
<追加されたシーン2>
往路逆瀬川付近の車内:
時江が翔子の話を聞いて励ましているシーン。ミサが二人のやりとりをガン見している。遠くから康江もやりとりを気にする。
往路宝塚駅:
時江が電車に乗り込むとうるさいおばさん集団がいる(その中に康江もいる)。
往路宝塚南口付近の車内:
うるさいおばさんの一人に馬鹿にされる康江。康江は駅ホームに白いドレスの翔子を見つける。
関学前:
悦子が彼氏にエスコートされながら圭一と美帆に話しかける。
復路甲東園:
圭一と美帆が電車に乗り込むと悦子を見つけ、互いに挨拶。
<シーンを追加する理由2>
映画のメッセージ(人と人との関わり合い、人はつながっている)を明確に表現するためにシーンを追加することがあります。この映画ではシーンだけでなく、原作にはないメッセージがナレーションという形で冒頭(タイトルバック前)にあります。
人はそれぞれ皆
いろんなやりきれない気持ちを抱えて生きている
死ぬほどつらいわけではないけれども
どうにもならない思いを抱えて生きている
そして、その気持ちは誰にも言えないのだ
誰かに言っても仕方がないことだと
あきらめるしかない
みんなそう思っている
自分自身で解決するしかないんだ
この世界にはこんなにも人がたくさんいるのに
同じ場所で同じ時間を生きている人がこんなにもいるのに
それは何の意味ももたない
名前も知らない人たちは私の人生に何の影響ももたらさないし
私の人生も誰にも何の影響も与えない
世界なんて、そうやって成り立っているんだ
そう思っていた
でも、
<セリフの追加>
往路仁川駅ホーム:
ミサがカツヤに突き飛ばされて怪我をした後のシーン。絆創膏をつける行動は映画で追加された(→時江の性格を強調するため)。「くだらない男ね。やめておいた方がいいわ」というセリフの後のセリフが映画で追加された。
「泣くのはいい。でも自分の意識で涙を止めら得る女になりなさい」
→孫に対してだけでなく、ミサに対しても発した言葉(?)
<セリフが追加された理由>
他のシーンと共鳴して「女性の強さと連帯性」を強調するため。
→復路門戸厄神:ミサが康江を助けるシーン
→復路小林駅:翔子がショウコを助けるシーン
←中間部分:ショウコ「誰か助けて」
←「きれいな女は損をするようにできているのよ。私やあなたのようにね」
→復路逆瀬川~宝塚:時江の説教シーン
→復路小林駅:翔子とミサが意気投合
<原作よりも女性の元気さが強調される>
征志とユキの物語を削除することによって主要な登場人物の中で男性は圭一一人になります。その唯一の男性である圭一が登場する部分は漫画的(お笑い的)に描くことによって他の登場人物とは区別しています。このように演出することによって物語のメインの登場人物は女性だけになりました。さらにシーンの追加、セリフの追加によって女性の強さや連帯性を強調することによって、女性の元気さが映画の一つのメッセージになります。ちなみに映画の公開の舞台挨拶は監督と女性出演者だけによって行われました。
<原作の設定を変更することの意味>
原作では描かれなかった新しい「効果」があります。
→原作よりもメッセージを明確にする。
→文字では表現できなかったメッセージを視聴覚のメッセージへ変換する。
→映画オリジナルのメッセージを加える。
映画では小説よりもアイテムを効果的に利用できます。
今回も課題作品は『阪急電車』です。
<構成の変更>
映画では小説とは異なった構成になっています。小説では何の前触れもなく、宝塚駅で征志が電車に乗る物語本編から始まっています。しかし映画ではタイトルバック前に登場人物(翔子、時江、悦子、ミサ、康江、圭一、美帆、ショウコ)の紹介シーンがあります。
メインの主人公が決まっていない、複数の登場人物を描いたドラマを群像劇と言います。こうした群像劇では、観客が登場人物について理解しやすいように、冒頭で登場人物の紹介を行うことがあります。映画やドラマのように顔を視覚的に認識しやすいメディアでは、小説のように文字だけで紹介されるよりも一挙に紹介した方が観客が登場人物を把握しやすいと考えられる。小説とは異なった手法で登場人物を認識させるということです。ちなみに最初の翔子以外の紹介シーンには小説に書かれていない部分が追加されています。これは登場人物のキャラの特徴を際立たせるためで、やはり観客への配慮が伺えます。
<構成を変更した他の映画の例>
『いま、会いにゆきます』(2004):
冒頭に息子佑司の18歳の誕生日のシーン、そして最後にヒロイン澪からみた物語が加えられています。一方、原作は全編主人公巧みの視点から書かれていました。
その他
→澪が子どものために絵本をつくる、佑司のために12年分のケーキが予約されるなどのエピソードを加えて、澪の愛が表現されています。
<時間軸を変更した映画作品>
多くの小説が「過去→現在」という枠組みで物語が構成されています。それに対して『世界の中心で、愛をさけぶ』(2004)では、大枠としては現在が過去をサンドウィッチするように構成されていますが、実際には現在と過去の自生が「場所」によって交互に、交差的に描かれて、二つの時間の結びつきの強さが強調されています。この作品では「テープ」というアイテムによっても現在と過去が結ばれていました。
<追加されたシーン1>
タイトルバック前の紹介シーン:
ショウコが小林駅横の小道で泣いている
中間の季節が変化することを示すシーンの直前:
ショウコが「誰か助けて」とつぶやいている。康江がケーキバイキングに行っている。
往路甲東園駅付近の車内:
自分と同じ講義を受けている美帆に興味を持った圭一。美帆に避けられたとき「べつにこわないし」とつぶやく。
<シーンを追加する理由1>
映画は小説のように心情を表現することが困難です(ナレーションという方法はあるが不自然)。登場人物の正確を明確に表現するためにシーンを追加することがあります。
<追加されたシーン2>
往路逆瀬川付近の車内:
時江が翔子の話を聞いて励ましているシーン。ミサが二人のやりとりをガン見している。遠くから康江もやりとりを気にする。
往路宝塚駅:
時江が電車に乗り込むとうるさいおばさん集団がいる(その中に康江もいる)。
往路宝塚南口付近の車内:
うるさいおばさんの一人に馬鹿にされる康江。康江は駅ホームに白いドレスの翔子を見つける。
関学前:
悦子が彼氏にエスコートされながら圭一と美帆に話しかける。
復路甲東園:
圭一と美帆が電車に乗り込むと悦子を見つけ、互いに挨拶。
<シーンを追加する理由2>
映画のメッセージ(人と人との関わり合い、人はつながっている)を明確に表現するためにシーンを追加することがあります。この映画ではシーンだけでなく、原作にはないメッセージがナレーションという形で冒頭(タイトルバック前)にあります。
人はそれぞれ皆
いろんなやりきれない気持ちを抱えて生きている
死ぬほどつらいわけではないけれども
どうにもならない思いを抱えて生きている
そして、その気持ちは誰にも言えないのだ
誰かに言っても仕方がないことだと
あきらめるしかない
みんなそう思っている
自分自身で解決するしかないんだ
この世界にはこんなにも人がたくさんいるのに
同じ場所で同じ時間を生きている人がこんなにもいるのに
それは何の意味ももたない
名前も知らない人たちは私の人生に何の影響ももたらさないし
私の人生も誰にも何の影響も与えない
世界なんて、そうやって成り立っているんだ
そう思っていた
でも、
<セリフの追加>
往路仁川駅ホーム:
ミサがカツヤに突き飛ばされて怪我をした後のシーン。絆創膏をつける行動は映画で追加された(→時江の性格を強調するため)。「くだらない男ね。やめておいた方がいいわ」というセリフの後のセリフが映画で追加された。
「泣くのはいい。でも自分の意識で涙を止めら得る女になりなさい」
→孫に対してだけでなく、ミサに対しても発した言葉(?)
<セリフが追加された理由>
他のシーンと共鳴して「女性の強さと連帯性」を強調するため。
→復路門戸厄神:ミサが康江を助けるシーン
→復路小林駅:翔子がショウコを助けるシーン
←中間部分:ショウコ「誰か助けて」
←「きれいな女は損をするようにできているのよ。私やあなたのようにね」
→復路逆瀬川~宝塚:時江の説教シーン
→復路小林駅:翔子とミサが意気投合
<原作よりも女性の元気さが強調される>
征志とユキの物語を削除することによって主要な登場人物の中で男性は圭一一人になります。その唯一の男性である圭一が登場する部分は漫画的(お笑い的)に描くことによって他の登場人物とは区別しています。このように演出することによって物語のメインの登場人物は女性だけになりました。さらにシーンの追加、セリフの追加によって女性の強さや連帯性を強調することによって、女性の元気さが映画の一つのメッセージになります。ちなみに映画の公開の舞台挨拶は監督と女性出演者だけによって行われました。
<原作の設定を変更することの意味>
原作では描かれなかった新しい「効果」があります。
→原作よりもメッセージを明確にする。
→文字では表現できなかったメッセージを視聴覚のメッセージへ変換する。
→映画オリジナルのメッセージを加える。
映画では小説よりもアイテムを効果的に利用できます。
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2011-11-18 09:38
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