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2010映画の社会学第8講 批評的方法(3) [映画の社会学]

映画の社会学 第8講 批評的方法(3)
原作と映画作品

 すでに課題作品を先に鑑賞していますが、まずは新しい方法の紹介です。今回は批評的方法について説明します。批評的方法とは、

個々の作品を対象に研究する。
 →映画評論と重なる領域
個々の作品の内容(製作者のメッセージを含む)、制作の手法、撮影された場所、時代や社会の影響、原作(小説、マンガ、ドラマ)との比較など

です。こうした方法であるため、作品をじっくり鑑賞する必要があります。その上でいくつかの定型的な視点から映画について考えていきます。

 さて映画は演劇に変わる娯楽として発展してきました。したがって初期の映画作品は演劇、戯曲をもとにして制作されることが多かったようです。もちろん映画独自のオリジナル脚本によって製作された作品もあります。映画全盛期に製作された邦画の多くは何か原作のある作品ではなく、オリジナルの作品がほとんどでした。
 しかし映画業界が斜陽期に入るとオリジナル脚本の作品は徐々に減少していきます。それでは映画の原作になる作品とはどのようなジャンルの作品でしょう。以下、リストをあげました。

戯曲(演劇)
小説
マンガ
ゲーム
ドラマ
映画(リメイク・続編)


 前述のように初期は最初からセリフによって構築された戯曲を原作とした映画作品が多かったのですが、次第に小説を脚本化した作品が製作されるようになります。そしてさらにマンガ、ゲーム、ドラマ、そして過去に制作された映画を原作とした作品が登場しました。歌の歌詞をモチーフにした作品もあります。たとえば『なごり雪』、『未来予想図』、『22歳の別れ』など。

 現在は原作のある映画作品のほうがオリジナル作品よりもはるかに多く製作されています。どうして原作のある作品が製作されるのでしょうか。

 原作を読んだ製作者が、作品のすばらしさをより多くの人に知ってもらうために大衆メディアとしての映画を利用するという理由です。次に原作がある作品は映画を制作しながら脚本を書く、あるいは内容を考える、などということがあまりなく、構成が最初からしっかりしています。そのため作品全体のまとまりが最初から構成されることになります。そしてもう一つ、これは最初の理由とも関連しますが、映画の興行収入をあげるだけでなく、原作を含め、タイアップされた商品全体の売り上げを伸ばすことができるからです。
 原作の売り上げからあらかじめ収入が「見込める」作品を映画化すれば、失敗するリスクが低くなります。テレビドラマの場合も同じです。視聴率からある程度映画の成功が予想できます。今回課題としてあげた作品には原作があります。筒井康隆の『時をかける少女』です。この作品は1965年から連載がはじまったジュブナイル小説で、1972年にドラマ化されたこともあってすでにベストセラーとなっていました。したがってある程度、収入を確保できるだろうということが予想されています。

 さて今回は小説を映画化した作品です。小説と映画のメディアとしての相違については第1回目の講義で説明しましたが、ここでもう一度確認しましょう。

小説:文字を読み、読者が場面を頭の中で想像する
   →基本的に文字で情報伝達
   →登場人物の心情を文字で表現

映画:観客の五感を刺激する
   →基本的には視聴覚に対して
   →映画の内容、設備によっては臭覚や触覚も
   →登場人物の心情はセリフ、ナレーション、字幕、演技で表現

 小説と映画はまったく異なるメディアを利用するため、たとえ同じストーリーでも異なった表現が必要です。だから原作と映画は別の作品だと考えるべきでしょう。まったく別のメディアで表現された作品の善し悪しの比較は無意味です。

 ここで原作から映画化する場合のポイントをまとめてみました。原作から映画化する場合、次のようなことが考えられます。

<原作を忠実に再現>
→原作の世界観、雰囲気をできるだけ忠実に表現しようとした映画があります。最近製作される映画の大部分は原作を忠実に再現しようとしています。この場合、メディアの特徴を生かすために演出を加えることがあります。

<原作の枠組みを利用>
→原作を特徴づける枠組みだけを利用して、ストーリーは原作とは異なった内容にする映画があります。
 今回の作品で言えば、次のような枠組みです。
男2人女1人の関係。タイムリープという特殊能力を持つ。

<登場人物のキャラだけ利用>
→物語、構成、枠組みなどはオリジナルにして、キャラだけを利用する映画です。
→別々の作品の登場人物を集めた新しい作品を創出することができます。

【トキカケの舞台設定の相違】

<小説>
特に「どこ」という舞台の設定はありません。

<1983年版>
場所を特定する表示はありません。ただしロケ地が監督の故郷である尾道や竹原であることは明確です。とはいっても尾道の特徴である海は映画のなかには撮されていません。

<2010年版>
東京(世田谷西中学校)、横浜(高校と和子の実家がある)。

【舞台設定のポイント】

 映画の舞台を決定する要因にはどのようなものがあるだろうか。下にいくつかの要因を挙げてみました。

・原作と同じ場所(原作がある場合)
→実話の場合は、実際の場所。イメージに合わない場合は変更されることもある。

・Film Commissionによる誘致(「西の魔女が死んだ」「The Lord of the Rings」「コスモス」「ラストサムライ」など)
→撮影による直接収入、観光資源の開発

・監督のイメージに合う場所(尾道三部作、「Little DJ」「カーテンコール」「クローズドノート」「青い鳥」など)

・ロケ撮影できない場合はセット撮影

・関東近隣でロケ撮影できればコストを抑えることができる

 舞台を決定するには製作上の必然性があるということです。

【時代設定の相違】

<小説>
特に時代設定はなし

<1983年版>
特に時代設定はなし

<2010年版>
現在を2010年、過去を1974年に設定。

時代設定がなければ読者あるいは観客は自分の感覚で時代を設定することになります。とはいえ作品は書かれたあるいは製作された時代の影響を受けるものなので、時が経過すれば「過去の作品」というイメージになることは避けられません。
 2010年版の時代設定が2010年(公開年)であるのは、この物語が忘れされた「過去」の出来事ではなく、現在の物語であることを表現するためだと考えられます。もちろん原作にしても1983年版にしても「現在」の物語として作られたのですが、どうしても「過去」の物語であるという印象は避けられなくなりました。
 2010年版で主人公がタイムリープする年が1974年である理由は、おそらく昭和に対するノスタルジーであり、もう一つは1974年がオイルショックの次の年だからだと思います。ただ1974年に設定するとあかりの母親、つまり和子の2010年での年齢が54歳になってしまいます。この年齢には少し無理があるような気がします。10年くらいずれているようです。

 さてこの時代設定と関連するのが舞台設定です。2010年ではあきらかに東京が舞台になっています。東京が舞台に設定された理由はいくつか考えられます。

コストの問題:
すでに述べたように興収が確保できない、あるいは二次利用での収入が確保できなければ制作費が不足します。東京近辺で撮影すればスタッフにかかる費用が低く抑えられます(宿泊費や食事)。

アニメ版(2006年版)の舞台が東京:
アニメ版では舞台の設定が東京になっていました(明確に東京という言葉が使われたわけではありません)。2010年版ではこのアニメ版の影響を受けていると考えられます。最近の若者層は実写版、アニメ版に関わりなく同じ感覚で映画を楽しみます。だから実写映画がアニメの影響を受けていたとしても何の抵抗もなく受け入れられます。

リアリティを高めるため:
東京や横浜は他の地方よりも一般の人によく知られています。よく知られている場所に設定することによってリアリティを高めることができます。もちろん東京方面の観客数が多いということもあると思います。

★現在のリアリティの高い作品を製作することによって親近感を創出することになったのだと思います。

【物語の構成変更】

 原作のOPは理科室の掃除のシーンから始まります。しかし1983年版のOPはスキー教室で和子と吾朗が星を見て話をしているシーンから始まっています。このシーンによって「深町が出現した場面」を観客と和子に明示することになりました。
 またこのシーンは白黒で表現されています。これはこのシーンが特別な位置づけになっていることを表します。

 1983年版ではOPを変更することによって始まりと終わりが明確になり、物語全体の枠組みが明瞭になりました。同時に登場人物3人の関係が観客に示されることになりました。


【人物設定の変更】

【吾朗の設定の相違】

<小説>
浅倉吾朗
風呂屋の横の浅倉荒物店
ずっぐりむっくりの体型
和子の友人
呼び方も普通
芳山君、朝倉さん

<1983年版>
堀川吾朗
堀川醸造所の息子
和子の幼なじみ
芳山君、「ゴロちゃん」

<2010年版>
浅倉吾朗
浅倉酒店主人(息子)
和子の幼なじみ
和子を好き
「ゴロちゃん」

この設定の相違から2010年版が1983年版の影響を強く受けていることがわかります。

 原作で朝倉となっているのが1983年版では堀川になっている理由についてはネットで検索すれば簡単に理由がわかります。


 原作からの設定変更によって1983年版では吾朗と和子の関係が大きく変わっていました。

・原作ではたんなる「友人関係」であった和子と吾朗の関係は「幼なじみ」へと変更。
・和子には「ゴロちゃん」と呼ばせて、吾朗に対して親しみがあることを表現させる。
・吾朗が和子に対して「恋」心を抱いているように演出した。
 →醤油店の屋上で桶を洗うシーン
 →瓦が落ちてくるシーンでの反応
・本来なら結婚することになる(深町のセリフ)ほど強い関係であるように設定が変更された。

 こうして原作にはない男女の恋愛の三角関係ができあがります。この設定変更がアニメ版に影響しています。この変更によって吾朗とすり替わった深町と和子の関係が強くなりました。つまり和子の吾朗に対する感情が深町に転移するのです。
 この結果、映画のテーマの一つは「恋」になりました。

【深町設定の相違】

<小説>
息子のいない中年夫婦の息子

<1983年版>
深町家の亡くなった息子夫婦の息子
→息子夫婦と孫息子が死亡

この設定変更により、かけがえのない人を失うことの「心情的なショックの大きさ」を表現することになります。これによりこの作品が単なる「恋」、「青春」、「SF」をテーマにしたドラマにとどまらず人間の心情の変化をテーマにしたヒューマンドラマに変化しました。

【和子の設定の相違】

<小説>
和子がその後どうなったかについては描かれていません。

<1983年版>
薬学部に進学し、大学の研究室に残っています。

記憶に残っていない深町の影響が残っていることを示します。つまり深町との記憶が残っていることが表現されます。
このことからも2010年版は小説版でなく、1983年映画版の続編であることがわかります。
☆和子は自立した女性(醤油店の「嫁」ではない)


【人物設定変更のポイント】

 映画化に際して原作からの人物設定を変更するのにはいくつかの理由があります。それをリストアップしました。

登場人物の人数変更(大部分は人数を減らす)
→映画は小説のように読み返すことができない
→人数を整理して観客が1回で理解できるように単純化する
→そのためにストーリー上の役割が変更されることがある

群像劇から一人の主人公の作品へ
→小説では複数の登場人物の視点から描かれることがある
→主人公を一人に絞ってストーリーを理解しやすくする
 (感情移入が容易になる)


 これが原作と比較した場合の批評的方法のポイントです。比較という手法を用いなくても作品自体を批評することもできます。次回はそうしたポイントについて紹介したいと思います。

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