SSブログ

社会学入門 第3講 行動と行為(2) [社会学入門]

社会学入門 第3講 行動と行為(2)

 引き続き今回のテーマは「行動と行為」で、題材は北川悦吏子脚本の『ロングバケーション 第1話』を題材にします。今から12年前の作品ですが、現在の我々にもけっして色あせない素晴らしい作品だと思います。特に台詞は今の若者にも通じます。前回の授業後のコメントにも「面白かった」、「好印象だった」という言葉が多くみられました。
 このドラマを題材にして社会学のもっとも基本的なものの考え方を紹介したいと思います。それが今回のテーマの「行動と行為」です。

 手足を動かしたり、話しをしたり、ものを食べたりする生物の活動や行い全般を「行動」(behavior)と言います。人間に限らず、動物でも生物でも「動き」ます。こうした他人が見ることができる、観察可能な動き、振る舞いがありますが、それらすべてを「行動」と呼ぶのです。
 それではこうした行動はどのように行われるのでしょうか。生物が行動する基本的なパターンは次のようなパターンです。

  刺激(変化) → 反応(振る舞い)

例えば、
「光」がつくとその方向に「飛んでいく(走っていく)」:走光性
「食物(エサ)」が与えられると「食べる」
「水の中」にはいると「泳ぐ」

刺激に対する反応として観察できるこうした生物の行動は、いつも同じです。走光性のある生物は、光があると必ずその方向に向かって「飛んでい(走ってい)」きます。光があっても飛んでいかないということはありません。
 生物は刺激があれば、必ず反応するのです。多くの動物も同じような行動パターンをもっています。

 人間にもこうしたきまった行動パターンがあります。これを「ロンバケ」の中から考えてみたいと思います。

 ドラマの冒頭で葉山南が街中を白無垢姿で走るシーンがあります。その姿を見た人々は一様に目が点になったような驚いた表情になっていました。

街中で突然、「必死に走る白無垢の女性を見る」という「刺激」に対して私たちは「非常に驚く」という反応を示すのです。

 そして南はそのまま浅倉が住んでいたマンションに着くのですが、その時、南は目を大きく見開いて呼吸が荒くなっていました。

「必死に走る」という刺激に対して、私たちは「目をひんむいて呼吸が荒くなる」という反応を示します。

 その後数日して、瀬名がマンションに戻ろうとすると、マンションのそばで足下にバスケットボールが転がってきて、「見知らぬ女性」に話しかけられます。その女性は白無垢女性である南なのですが、瀬名は南だとはわかりません。そして「怪訝な表情」をします。

このように「見知らぬ人に話しかけられる」という刺激に対して人は、「怪訝な表情」をするという振る舞いをします。

 竹野内豊演じる男性とりょうの演じる女性が競輪場で「予想した選手が勝った」時にはどのように反応したでしょうか。二人は声を上げて、手を挙げて喜びました。

 皆さんはこのドラマのような状況に直面したら、どのような反応をされるでしょう?

 一般に生物の、刺激 → 反応 という基本的な行動パターンはいつも同じです。同じ種の生物であれば、同じ刺激に対していつも同じ反応を示します。
 人間の場合も多くの基本的な行動パターンは同じになります。街中で走らないはずの人間が走っていたら、白無垢の女性やウェディングドレスの女性が走っていたら、ほぼ全員が「驚きの表情」を示すと思います。必死になって走ったら「目をひんむく」ことはなくても呼吸が荒くなります。嬉しいことがあれば、誰もが喜ぶでしょう。こうした感情の表現については多くの人がおそらく同じ行動パターンを示すだろうと思います。このような生理的な反応については、大部分の人間が同じ刺激に対して同じ反応を示すでしょう。
 しかしいつも同じ行動パターンを示すのでしょうか? たとえば、「結婚式当日に新郎に逃げられた新婦はいつも白無垢やドレスを着たまま結婚式場を飛び出して、街中を走り抜けるのでしょうか?」 泣き崩れて何もできない人、気力が失せて倒れてしまう人、笑って帰ってしまう人、新郎の親族に「訴えてやる」と言って、弁護士事務所に駆け込む人、いろいろな行動が考えられます。

 実は人間の行動パターンには大きく2種類あるのです。生理的な行動、感情に関わる行動の大部分は、何も意識しないで行われ、他の動物と同様に刺激に対しての反応が示されます。これらの行動は大部分の人が似たり寄ったりの反応です。しかし何らかの形で本人の意志が介在する行動、意識して行われる行動は人によって反応が変わります。この行動は刺激 → 反応という単純なパターンではなく、刺激(変化)に対して「何らかの意味づけ」が行われて初めて反応が起こります。

刺激(反応) → 意味づけ → 反応(振る舞い)

 こうした「意識して行われる行動」、何らかの目的や意図がある行動を社会学では、「行為」(act)と呼び、行動のなかでも特別な行動として区別します。そして社会学では行動一般ではなく、行為を研究対象にします。人が意味をもたせていない反応を分析しても、社会学的には無意味だと考えているからです。ただし行為のなかには、その人が意識していない行動が含まれます。つまり本人は意味や意図を知らないけれども、特定の行動パターンをしてしまうということがあるのです。また、すべての行為が、観察可能な行動として表現されるわけではありません。人間は、「行動しない」という行動をすることがあります。
 「刺激」に対する「意味づけ」は個人によって異なります。その結果、人によって「反応」としての行為が変わります。例えば、南は朝倉から「あなたは強い」という手紙を受け取りました。実際、南は「結婚式当日に新郎に逃げられる」という刺激に対して、アクティブな行動を引き起こす意味づけを行い、新郎のマンションまで走りました。しかし同じ刺激を涼子が受けたらどうでしょう。おそらく全く逆の意味づけを行うだろうと推測できます。あるいはあなた自身はどうでしょう? どのような意味づけを行いますか。そしてその結果、どのような行動を行うでしょう。

 それでは我々はどのような形で「意味づけ」を行い、行動を起こしているのでしょう。もう少し分解して考えてみたいと思います。
 我々は刺激を受けると、それに基づいて何らかの欲求を感じます。欲求という表現でなくても行動を起こすための動機と表現してもいいでしょう。そしてその欲求や動機を充足させるための目的を想定します。そしてその目的に従って行動を行います。こうした流れを「行為の構造」を呼ぶことにします。それでは次にドラマに照らし合わせながら「行為の構造」について具体的に考えてみます。

 南は自分の誕生日が近づいてきました。これが刺激です。そして過去の経験をふまえ、「自分の誕生日を祝って欲しい」という欲求をもちます。もちろんここでは逃げてしまった浅倉に祝ってもらう、ということを求めています。この欲求を満たすために、「浅倉からの連絡を待つ」という目的がたてられました。その目的を達成する「ために」南は仕事を休んで、一日マンションにいて、鍵をもたない浅倉のために「ドアの鍵をかけない」で、「瀬名にかかってきた電話に出る」という行動をとります。
 もちろん瀬名はこうした南の「行為の構造」の内容を知りませんから、ケンカになってしまいます。しかしもし最初から瀬名が南の行動の中身、行為の構造を理解していたら、どうでしょう。

 もう少し別のシーンから考えてみましょう。たとえばスーパーボールが出てきた時の瀬名の行動を分析してみたいと思います。この場合、「スーパーボールが出てきた」ということが刺激になっているのではなく、ここでの刺激は「スーパーボールにまつわる浅倉との思い出話で落ち込んだ南の表情や振る舞い」です。この刺激に対して瀬名は「場を明るくしたい」あるいは「緊張した場の雰囲気を和らげたい」という欲求をもちます。この欲求を満たすためにはどうすればいいのでしょうか。瀬名は雰囲気を変えた原因であるスーパーボールを使って「南を喜ばせる(笑わせる)」ということを考えました。この目的のために「スーパーボールを3階から落として、元に戻る」という現象を見せたのです。
 この例の場合、欲求(動機)と目的がほぼ同じものになります。さらに「刺激」と「欲求」もほぼ同時に生じています。このように実際の行為の構造には、4つの要素に明確に分けられないことがあります。

 さてここで「目的」と「行動」だけを取り上げて考えてみたいと思います。「目的」と「行動」だけを取り上げて考えると、人間の行為は大きく2種類に分けられることがわかります。

 例えば瀬名が南に誕生日の曲を演奏したシーンを考えてみましょう。このシーンでは、瀬名は「南を喜ばせるため」に「ピアノを弾いています」。「ピアノを弾く」という行動が「南を喜ばせる」という目的を達成するための手段になっています。こうした目的達成するための手段として行動する行為を、「手段的行為」と呼びます。我々は生活のなかでこうした手段的行為をたびたび行っています。例えば多くの人にとって競馬や競輪でお金をかけるのは、お金を儲けるための手段です。化粧をしたり整髪するのも、多くの場合、他の人の気を引くため(あるいは他の人の気をひかないため)の手段でしょう。以前はダイエットと言えば、きれいに見せるための手段でした。

 一方、瀬名は大学の指導教官に向かって、「ボクは誰かのためにピアノを弾いたことがないんです。ピアノは好きですけど、誰かに聞かせたい、と思ったことがないんです」と言いました。南には「他人の前でピアノは弾かない」と言っています。この行為はどういう意味でしょう。この場合、「ピアノを弾く」という行動自体が「目的」になっています。「~のためにピアノを弾く」という図式ではなく、「ピアノを弾くためのピアノを弾いている」のです。こうした行為を「目的的行為」と呼びます。この行為は自己完結しています。手段的行為と同じように我々は目的的行為も行います。特に趣味に関する行為の大部分は目的的行為です。先ほど競輪や競馬を例にして手段的行為を説明しましたが、競輪や競馬はたんにお金を儲けるための手段としてだけ存在するわけではありません。たとえば馬を見るのが大好きな人は、競馬場で競馬を見るという行為が目的になっています。そのような人はたとえ馬券を購入したとしても、お金を儲けることだけが目的、とはいえません。馬券を購入することで好きな馬を応援する、という馬を見るという自分の行為の意味をより強めるために行っている場合があります。

 それではドラマに登場した次のような行為はどのように分析できるでしょう。

「ピアノ教室でピアノ教師をする行動」(瀬名)
「「アンアン」のモデルをしていると嘘をつく行動」(南)
「涼子が「どうぞ」とピアノを瀬名にゆずる行動」(涼子)

 昨年度は第4回目の講義で第1回のレポートの案内をしていました。今年度も同様に第1回目のレポートの案内を来週行いたいと思います。GWの真っ最中ですが・・・。授業に出席できない人はこのブログをよく読んでください。授業に出席できる方は、特典付き(?)かも。なお来週は第1回目のレポートの案内だけで、実際の提出はさらに先のことになります。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。