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2010社会学入門第12講 交換理論 [社会学入門]


社会学入門2010 第12講 交換理論

 1987年国鉄(国営鉄道)が分割民営化されました。民営化されたJR東海が最初に制作したのが「シンデレラ・エクスプレス」シリーズです。1987年放映されたCM「シンデレラ・エクスプレス」はユーミンのアルバム『DA・DI・DA』に収録された「シンデレラ・エクスプレス」という曲をモチーフにしています。
 当時、東京発新大阪行きの最終新幹線は、東京21時発新大阪0時着、で乗客をシンデレラに見立てて制作されました。そしてこのCMが話題になるのと同時に実際に東京発の新幹線で別れを惜しむ恋人たちの姿が見られることを報道されるようになり、さらに話題になりました。1992年、ダイヤ変更によりふたたび「シンデレラ・エクスプレス」をモチーフにしたCMが制作され、さらにその間に「クリスマス・エクスプレス」シリーズのCMも話題を呼び、遠距離恋愛が注目を集めました。

 今回の教材はそうした遠距離恋愛が話題になっていた1991年に放映されたドラマです。
「逢いたい時にあなたはいない」(第1話)22.5% 平均視聴率22.0%
脚本:伴一彦
演出:本間欧彦・木村達昭・石坂理江子
プロデュース:亀山千広
1991年10月7日~12月16日放映 月9ドラマ


 さて今回のテーマは「遠距離恋愛は続くのか?」ということです。遠距離恋愛についてはいろいろな専門家がHPで議論しています。そのなかでポイントだと思われる点は2点。

1.距離感の問題

 物理的距離、時間的距離、心理的距離などいろいろな距離があります。遠距離恋愛という言葉通り、この距離感が遠いのが遠距離恋愛です。
 ドラマのなかでは、はじめての長距離電話で「声はこんなに近いのに・・・」という心の声がナレーションされていました。

2.接触頻度の問題

 人間関係の維持には接触頻度が大きな要因になっています。遠距離恋愛ではこの接触頻度が減少しますが、これがどのように影響するのか。

 こうした問題について、まずはよく利用される心理学の理論からの説明を紹介してみましょう。

<ボッサードの法則>

 遠距離恋愛でよく紹介されるのはボッサードの法則です。

 アメリカの心理学者ボッサードが発見した法則。
 ボッサードが婚約中の5000組を調査したところ(1932年)、婚姻届を婚姻届を出した時点で、12%カップルがすでに同棲していたことが判明。さらに、1/3のカップルが5ブロック以内の範囲に居住し、ほとんどのカップルが電車で数駅の範囲内に住んでいたことがわかりました。

 この調査の結果から次のような法則が発見されます。

「カップルを隔てる距離と、結婚までに至る人数は反比例する」(2人の距離が離れているほど結婚にたどり着く確率は低い)

 この結果を一歩進めて、

「男女間の物理的な距離が近いほど心理的な距離は狭まる」

という理論を導きだしました。

 ボッサードの法則を遠距離恋愛に照らし合わせると、遠距離恋愛は男女間の心理的な距離をひろげることがわかります。

→二人を結びつける心理的な力が弱くなる。
→別れる力の方が強くなる。


<単純接触効果>

 アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスが論文にまとめた理論(1968年)です。

 よく会う人や繰り返し聴く音楽を好きになっていくように、何度も見たり聞いたりすると次第によい感情が起こるようになります。これは見たり聞いたりすることでつくられる潜在意識が印象評価に影響することによります。

 このように、第一印象が悪くない場合、繰り返し接触することによって好意度や印象が高まる。これを単純接触効果といいます。
 ドラマのテーマ曲の人気が高まるのも広告に効果があるのも、この「単純接触効果」によるものだと考えられます。


<熟知性の原則>

 じっくりと話を聞く、一緒の出かけるなど相手のことを深く知るようになるにつれて、相手を好きになるという原則のことです。

→単純接触効果を人に限定して適用した場合の原則

人がものや他人に対して好意をもつためには接触頻度が重要。


<単純接触効果>と<熟知性の原則>から接触頻度(回数)と人間の好意度に正の相関があることがわかります。

→会う回数の多い人を好きになる
→会う回数が少なくなると好意度が低くなる。


 心理学の地検から距離と接触頻度について次のような原則が導き出されます。

 恋人同士が離れて暮らすようになり(遠距離)、会う機会が少なくなると(接触頻度の減少)、お互いの好意度が低くなり、別れへと至る。

→遠距離恋愛ではこの原則が実現する可能性(確率)がきわめて高くなる。


 それでは遠距離恋愛について社会学ではどのように考えることができるでしょうか?


 遠距離恋愛を社会学的に分析するとすれば、「交換理論」によって分析することができるでしょう。
 社会で行われる「交換」には

→経済的交換
→社会的交換

という大きく2種類があります。

<経済的交換>
商品の購入(貨幣→物品)
労働(労働→賃金)

<社会的交換>
会話、挨拶
祝儀と祝儀返し
感情の交換(愛など)

<社会的交換成立の条件>

1.他者と交換しなければ目的が達成できない場合

→他者の所有物を入手する場合
→他者の愛を勝ち取るために贈与や奉仕をする

2.目的達成を促進する手段として有効な場合

→キビ団子と交換で家来を得て、鬼退治する
→出世のために上司に贈り物をする

<経済的交換成立の条件>

1.等価性

:商品価値は変化するが、「等価」と考えられる(世間が妥当だと捉える)価値と交換すること

2.双務性

:相互に債務が課されていること(契約的債務)

そして、等価性と双務性を合わせて「互酬性」と呼びます。

<社会的交換における互酬性>

 経済的な互酬性は社会的交換にあてはめることはできるしょうか。

 社会的交換では等価性も双務性も確保されない場合があります。
 社会的交換で行われる交換の価値は貨幣のような、世間の誰もが妥当だと捉える基準がありません。
 社会的交換における責務は「契約的責務」ではなく、「道徳的責務」になります。つまり契約のような客観的基準ではなく、道徳という個人の価値観です。


 さて社会的交換成立によって何が生じるのでしょうか。社会的交換が成立することによって、「人間関係が大きく変化します」。しかしながらそこには互酬性の確保が必要です。

 もし互酬性が確保できない人間関係の場合、非対称の人間関係になってしまいます。たとえば、地位の差、一方的な贈与の関係、偏った人間関係などです。


 もしも対等な人間関係を成立し、それを維持するためには互酬性を確保した交換が必要です。つまり交換は人間関係維持の条件なのかもしれません。


 それでは遠距離恋愛を交換理論で考えてみましょう。遠距離恋愛の多くは物理的に距離があります。したがって遠距離恋愛中に接触するためには(会うためには)、お互いにあるいは一方が大きなコストを支払わなければなりません。つまり

恋愛関係の維持=接触のためのコスト

という関係が成り立ちます。このコストを誰が支払うのか、遠距離恋愛では「互酬性」の確保がポイントになります。

<コストに合う価値があるのか>

 何度も高いコストを払って相手に会うことに見合う「何らかの報酬」(等価な報酬)があれば、遠距離恋愛であっても人間関係が維持されます。ただし互酬性の確保が必要です。もし一方が全面的にコストを払うという形態では報酬に等価性が維持されない可能性があります。

<会わないこともコスト?>

 遠距離恋愛では「相手に会わない」(接触しない)ということもコストになります。長い間、会わないとコストが蓄積されます。

→連絡し合うということが「報酬」になる。
→電話、手紙でのやりとりも「交換された報酬」になる。
→ただし以前は電話も手紙もコストがかかった。
 (現在は無料の通信手段がある)

☆こまめに連絡を取ることで、会わないコストに対する等価な報酬を獲得できます。

 遠距離恋愛において、「互酬性の確保」を前提とした「交換」関係が成立しないとき、恋愛関係は破綻します。

 ドラマの主人公が札幌空港で感じた「せつなさ」はなんでしょう?



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2010社会学入門第11講 自己形成 [社会学入門]

社会学入門2010 第11講 自己形成

 私たちはそれぞれが属する社会のなかで「相互行為」を繰り返します。その経験を通して役割を取得し、それを内面化していきます。もしすべての人間が同じように役割を取得するとすれば、同じ社会に属する人間はすべて同じような自我を形成するはずです。

なぜ異なる自我(自己)が形成されるのでしょうか?

今回の題材:

『のだめカンタービレ 千秋真一
  コンプリート・エディション』
 
  「ドキュメンタリー」

  出演:玉木宏

劇場版後編公開前に発売された「のだめ」のDVDです。


 他の動物にはない「人間」の相互行為の特徴とは何でしょう。他の動物にはない人間の相互行為の特徴は、他者の役割取得です。
 私たちは自分が他者に対して行った行為を刺激にして、相手のなかに呼び起こす反応と同じ反応を自分のなかに呼び起こすことができます。つまり他者の役割を自分のなかに取得することが可能です。こうすることで自分自身を自分の対象にすることもできるようになります。自分自身のことを他者のように考えることもできるということです。

 自分の行為によって他者がどのように反応するのか、ということをあらかじめ自分のなかに呼び起こせるということは、自分の行為の結果を予想して別の行為を想定できるということです。

 つまり自分の行為をコントロールする(修正したり、キャンセルしたり)ことができる、ということを意味します。先日の『スジナシ』で妻夫木や鶴瓶が行っていた演技のコントロールがそれにあたります。
 それでは私たちはどのようにして他者の役割を自分のなかに取得できるようになるのでしょう。
 このことについてはアメリカの社会学者G.H.Meadの理論が役立ちます。
 私たちは子どもの頃「ごっこ遊び」というをよくやっています。アイドルの模倣だったり、役者のまねだったり、あるいは自分の家族のまねだったり、こういう模倣というコミュニケーションを中心とした「遊び」を通して、私たちは他者の役割を取得できるようになります。
 そしてごっこ遊びだけでなく、日常生活の中のさまざまなコミュニケーションを通して、多くの複数の他者の役割を取得していきます。このような複数の他者が自分のなかに定着し、内面化された時、それら他者の役割がストックされている社会全体の態度や行動様式が自分のなかで組織化されます。こうして複数の他者の役割が組織化されたものを「一般化された他者」と呼びます。

 さらに自己の内部で組織化された「一般化された他者」をMeadはme(客我)と呼びました。meは社会が共有する「役割期待のイメージ群」であり、自己の内部にある「他者」です。

 meは自己に対してmeに応じた反応を要求します。この要求に対する自己の反応をI(主我)と呼びました。Iはこれまでの経験に基づくmeおよび社会にイメージに対する自己自身の反応です。

 つまり自己(self)とはIとmeとの内的な相互作用です。とはいえ自己のなかに2つの全く別々の部分があるわけではありません。

 さて自己あるいは自我についての理論は社会学の領域よりも前に心理学の領域、精神医学の領域で議論されています。S.フロイトの自我論です。フロイトは次のように考えました。
 快楽を求める生物学的、本能的、欲動的なes。社会的価値規範を内面化し道徳的良心として働く超自我。自我は超自我とesの葛藤を調停する。自我、超自我、es(id)は人間の心を構成する3つの部分。
 詳しくは心理学事典で確認してください。少なくともフロイトは人間の心が3つの部分から構成されると考えていました。

 それに対してMeadは人間の心はIとmeという2つの部分から構成されるとは考えていません。これについてはMead自身の言葉から引用してみましょう(正確には、Meadの言葉を聞いた弟子たちが書き留めた言葉です)。

「meは時間的な過去の〈わたし〉でもある。過ぎ去ったぼくはもはやIとしてはありえないものになる。ぼくがIとしてとった行動も、それが過去のものとなるにつれて、Iにはての届かないものになる。ああ、あんなこと言わなければよかったのにと悔やむのは、過去のものとなったmeに対するIの反応なのである。さらにmeは社会的な側からみたぼくへのまなざしでもある。「meとは、われわれ自身の態度のなかにあってある反応を要求しているハッキリと組織化された共同体の表象である」(190)。Iは完全に計算し尽くせない意外性のあるものであり、meは変えようと思っても変えることのできない他性をもつ。それでいてIとmeの両方で、「社会的な経験のなかで現れるところの人格が構成される。自我は本質的に、こういうふたつの識別できる側面をともないながら進行していく社会過程である。もしも自我がこういうふたつの側面をもっていなかったら、自覚的な責任というものはありえないし、経験のなかに新しいものが発生することもない」
(『精神・自我・社会』1973)

 さてこれが社会学のなかで自我の考え方の基本です。それではもし自己がmeだけによって構成されているなら、「個性」は存在せず、みんな同じ人間になってしまいます。人間の個性はどのように形成されるでしょうか?

 自己形成とくに個性の形成にもっとも重要な役割を担うのは、「I(主我)」です。

I(主我)は個人の内発的反応である。内発的であるため、個人差がある。
I(主我)はme(客我)に働きかけて内面化した規範を変える場合がある。
逆にI(主我)はme(客我)に惰性的に従うだけかもしれない。
いずれにせよ、I(主我)が「創発的な自己」を構成する

 今回の題材で考えてみると次のようなことがわかります。

玉木宏  = 主我 = 役者
千秋真一 = 客我 = 役柄

原作と同じ千秋真一が表現されているとすれば、それは客我だけの存在(誰が演じても同じ)になってしまいます。逆に原作のイメージが全くなく玉木宏(主我)のまま演技しているとすれば「演技」とはいえません。主我と客我のバランスが重要なのです。

 もう一つmeについては考えておかなければならないことがあります。meは「一般化された他者」だと紹介しましたが、実はmeにはもう一つ「重要な他者」が存在しています。他者役割を取得して自己の内部で組織化する時、meは「一般化された他者」と「重要な他者」の二つの領域から構成されます。
 自己形成に与える影響力は「重要な他者」の方が大きくなります。そしてこの重要な他者は家族・友人・強くあこがれる人など個人にとって「重要だととらえられる他者」によって組織化されます。

 さてこの重要な他者がどのような他者によって構成されているか、これが問題です。構成によってmeの内容が変化し、主我の反応が変化するからです。meの内容が変わり、Iの反応が変化すれば、たとえ同じ環境で育った兄弟であっても異なった個性を形成することになります。

 このことを題材に当てはめて考えてみましょう。

「玉木宏が演じる千秋真一」という状況における重要な他者は?

→指揮指導:飯森範親(劇場版)
→音楽指導:茂木大輔、梅田俊明
→総監督:武内英樹、監督:川村泰祐

こうして玉木宏が演じなければ誕生しなかった千秋真一が誕生します。
妻夫木聡や山田孝之、小栗旬とは異なる千秋真一です。

<まとめ>

自己は生まれた時から「存在」するものではない。
規範によって抑圧されて形成されるものではない。
リアルな世界でのコミュニケーションと同じように自己の内部での「自己-自己」のコミュニケーション(相互行為)によって自己は形成される。
つねに成長し、変化する


のだめカンタービレ 千秋真一 コンプリート・エディション[DVD]

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2010社会学入門第10講 ラベリング理論 [社会学入門]

社会学入門2010 第10講 ラベリング理論

 地位と役割で説明したように、私たちは自分の地位に対して期待される役割を取得してそのように行動します。それには次のような理由があります。

→人間関係の維持
→場の秩序を維持するため
→社会全体の秩序を維持するため
→生活しやすくなるため

しかし期待される役割がつねに個人にとってプラスになるとは限りません。

 それでは今回の題材を紹介します。

『青の時代』
脚本:小松江里子、プロデューサー:伊藤一尋
演出:松原浩、那須田淳、片山修
出演:堂本剛、奥菜恵、上川隆也他
1998年7月3日~9月11日TBS系21:00~枠

 時代を反映した部分と時代にずれを生じさせる部分もあるユニークな作品です。


 すでに説明したように私たちは社会規範に従って行動します。社会規範は行為者の行為を拘束する力だからです。規範に従って行動する限り、社会のメンバーとして認識され、社会のなかで円滑に生活することができます。役割も規範の一つです。だから私たちは期待される役割を取得して行動しようとします。

 社会は私たちが規範に従って行為しているかどうか、いつもチェックし、評価しています。この評価のことを社会学では「サンクション」と呼びます。サンクションには大きく2種類あります。一つは正のサンクションです。
 正のサンクションは「規範に同調する行為に対して報酬を与えること」です。正のサンクションとしての報酬には円滑な生活や妨げのない生活などが含まれます。

 さて社会規範に同調しない行為を「逸脱行動」と呼びます。逸脱行動に対しては負のサンクションが与えられます。負のサンクションとは「逸脱に対して制裁が科せられること」を表します。
 そして正にしても負にしてサンクションにはさまざまなタイプがあります。

 それでは逸脱行動について詳しく考えてみましょう。逸脱行動には一般に、犯罪、非行、中毒、自殺、家出などが含まれます。どれも規範に同調しない行動です。
 そしてこの逸脱行動発生の原因がいろいろと考えられました。一般に犯罪や非行が生じたときにはその原因は個人を制御する社会規範の力が弱くなったからだ、と考えられてきました。個人を調査すればその原因が明らかになると考えられたということです。

 こうして逸脱の原因は逸脱者自身にあると考えられました。逸脱者の行為の動機や契機、生育歴、家族・地域・学校のなかでの地位や活動が詳しく調査されます。そしてその調査から個人の行為を拘束する力である「規範」が弱体化し、逸脱しやすくなっていることを見いだそうとするのです。

 このように社会規範の弱体化が逸脱の原因であるとするのではなく、社会規範の存在自体が逸脱の原因ではないかと考える理論が提案されます。これがラベリング理論です。

 それではこのラベリング理論については説明しましょう。
 ほんのちょっとした規則違反、標準から少し外れた服装をした生徒がいたとします。この生徒を誰かが「不良」と呼びます。この「不良と呼ぶ」という行為を社会学では「ラベルを貼る」(あるいはレッテルを貼る)をいいます。

 ここでいうラベルは個人の役割であり、「社会的に固定化されイメージ」です。つまりラベルとして設定された役割を世間の人の多くが共有しています。「不良はこういう人だ」という定義です。
 そして周囲の人はこのラベルに合わせてラベルを貼られた人に役割を期待し、行動します。ドラマのなかで主人公は犯罪者として扱われ、犯罪が行われると一番に警察に疑われていました。そういう目で見るようになるということです。

 私たちは生活する中で役割取得という社会的スキルを習得しています。ラベリングというメカニズムのなかでもこのスキルが利用されます。逸脱者は役割取得というこのスキルを発揮して逸脱者のラベルを受け入れ、他の逸脱者と社会に所属したり、逸脱者としてのアイデンティティを形成するようになります。こうしてりっぱな逸脱者になってしまいます。

 さてこのドラマのなかでは何度も「ホントのこと」という言葉が登場します。ここ使われる「ホントのこと」とは何でしょう? 
 ここで用いられた「ホントのこと」とは「社会が期待する事実」、「世間が真実だと信じているイメージ」です。つまり「ホントのこと」とは、真実や事実ではなく、社会がそう信じていて、個人に対して与えるイメージを指します。

 このことはドラマのなかで用いられたセリフからわかります。「それが聞きたいんだろ!!」 主人公のこのセリフがすべてを明らかにしています。私たちは社会から「ホントのこと」を受容するように強制されているのです。なぜならそれが規範だからです。
 いったん「逸脱者」というラベルを貼られると、それを受容しないと生活できなくなります。
 つまりラベリング理論では犯罪は社会がつくりだすということが明らかにされます。もちろん犯罪のすべてを社会が生み出すとは限りません。しかし社会の大部分の犯罪は社会によって構成されたのです。

 ラベリング理論の逸脱研究では、規範に同調しない行動自体に着目するのではなく、行為に対する社会の反応が逸脱行動とその再生産に関わっていることを明らかにしたのです。今までの逸脱研究の結果とは逆のことです。
 これまでに紹介したように規範は社会や時代によって変化するように、逸脱者の内容も変化します。逸脱は社会的合意が必要です。

 さらにラベリング理論によって変えられたものとして、社会意識があります。それまでは犯罪に対しては処罰するという処罰主義が中心でした。それが医学的あるいは心理学的に治療する治療主義、または教育し直すという教育主義へと変化しました。

 ラベリング理論の一つと言われる考え方に「ピグマリオン効果」があります。
 ピグマリオン効果とは、教師が生徒に対して期待することによって学習効果が上がること(教師期待効果、ローゼンタール効果とも呼ばれる)をさします。
 ちなみにゴーレム効果とは、教師が期待しないことによって学習者の成績が下がることを意味します。

 ラベリング理論では逸脱行動を中心に研究してきたため、負のラベルについての理論が構築されました。しかしこの理論は負のラベルだけでなく、正のラベルについても利用できます。ラベルを貼られるとによって、社会から逸脱するだけでなく、社会のなかで生き生きと生活できるようにもなると言うことです。


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2010社会学入門第9講 地位と役割(4) [社会学入門]

社会学入門2010 第9講 地位と役割(4)

 地位と役割についての理論は私たちの日常生活に密接に関係し、応用力があります。ここでしっかりとこの理論を身につけましょう。
 ということで第2回目のレポートの告知です。

 それではいよいよ第1回目のレポートを告知します。

課題作品

 『コードブルー  ドクターヘリ緊急救命 season1 第1話』
  演出:西浦正記、葉山浩樹
 脚本:林 宏司

2008年7月3日~2008年9月11日放送
木曜劇場枠


レポート課題
「藤川の地位と役割について論じる」

藤川(浅利陽介)の地位と役割について状況によって変化する「構造的地位」と「対人的地位」について、場面ごとに詳しく論述しなさい。
必ず根拠をあげて論証すること。

 授業のなかで紹介したように、人間の地位は日常生活のなかで頻繁に変化します。また同じ構造的地位であっても相手によって期待される役割が変わります。あるいは同じ構造的地位にある人同士の関係では、対人的地位が優先し、期待される役割も当然変化していきます。
 対人的地位については時間の経過とともに変化します。そうした複雑な地位と役割をきちんと観察して読み解いてください。

 特に前回のレポートで明らかに手を抜いた人がいます。そのレポートはすでに「D」評価です。今回のレポート、あるいは最後のレポートで挽回しないと、3回のレポートを提出しても「D」評価にします。けっして手を抜かないこと。


<レポート作成の注意>

この課題は感想文でも作文でもない。小論文として書きなさい。

<レポート提出期限>

6月24日授業終了時間まで

提出期限に遅れた場合には、提出されなかったものとする。いかなる理由も受け付けない。
なお、リポートが提出されなかった場合には、「F」(失格)とする。

例年、提出期限日に提出する学生が多くいる。これはあくまでも締め切りであって、この日に提出しなさい、という意味ではない。余裕を持って提出すること。人生には何が起こるかわからない。

レポートはMICCSか、電子メールで提出すること。提出先のメルアドは授業中に紹介している。メールで提出する場合には、<受領確認>メールを送信するので、受信できるように設定しておくこと。

なお、体裁については制限はない。必要であれば図表を利用してもよい。ただし分量についてはきちんと論述するために必要な分量というのは必ず定まります。携帯の画面に収まるような分量では十分に議論できません。そこで今回は分量の制限をつけます。分量は1000字以上です。

以上。


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2010社会学入門第8講 地位と役割(3) [社会学入門]

社会学入門2010 第8講 地位と役割(3)

 まずは今回の題材を紹介します。

『スジナシ 東京上陸スペシャル』
出演:笑福亭鶴瓶、妻夫木聡、宮藤官九郎
2004年11月名古屋市中央区CBCスタジオ収録

 『スジナシ』は1998年放送開始。開始当初は名古屋限定の深夜番組でした。反響の大きさから1時間枠、系列局(TBSなど)での放送、あるいは土曜夕方へ移動し、現在も放送が続けられています。このSPは166回放送分です。

 このドラマではセットを組むために状況だけが設定されています。それ以外の設定はありません。その場で地位が決められるため、あらかじめセリフを考えたり、役作りしたりといった準備ができません。その場で決められた地位について、その場ですべてを考えながら演じていきます。いわば役者としての瞬発力が試されるのです。

 しかしながらよく考えてみると、こういう状況というのを私たちも日常生活の中で体験する可能性があります。そこでは今までの自分の体験が生かされることになります。

 さて最初に妻夫木が仕掛けました。
「親父!」
 この一言で二人の構造的地位が決められました。これによって鶴瓶は「親父として」期待される役割を演じることになります。この役割期待は演じている二人だけのイメージでしょうか?

 「親父」と声をかけられたときの鶴瓶の反応はどうだったでしょうか? 後からの解説でもわかりますが、鶴瓶はこのとき自分が親父になるとは考えていませんでした。だからここで彼は驚いたように竹刀を脇に置きます。

「竹刀なんかもってちゃ、いかんと思った」
「たばこを吸っているの、怒るしかあらへんやないか」

このように考えたということは、親父についてのイメージがすでに鶴瓶の中にある、ということを表します。このイメージはどこからきたのでしょう?

 相手の役割に対する期待は最初からそれぞれの人の中にあるわけではありません。役割期待はじつは私たちの外、社会にあります。外とはいえ、私たちは社会の中で生活しています。私たちは社会がストックしている「役割期待のイメージ」に照合して相手に役割を期待し、期待された方もストックされた「役割期待のイメージ」に照合して、相手の期待を推測します。

 観客は「父親」と「息子」という地位に与えられた役割期待のイメージに照合して二人の演技をみます。
 同時に鶴瓶と妻夫木は、観客がストックしているだろう役割期待のイメージに「合う」ように役(セリフや表情など)をつくります。
 ここで二人はお互いにやりとりしながら、お互いが期待する役割をさぐりつつ、同時に観客が納得するような役割を互いに演じているのです。

 私たちは社会がストックしている役割期待に一致する行動、つまり地位に対してストックされた社会のイメージを考えながら相手の行動を観察し、そのイメージに合致したとき、相手の地位を推測し、その地位が本物であると判断します。
 鶴瓶は自分の妻を外人にしてしまいました。それには次のような二つの理由が考えられます。

→父親-息子の関係が本物に見えるように
→地位のイメージに合うように設定を修正する

私たちは自分の中に明確な役割期待を持っているのではありません。社会がストックしている役割期待を自分の中に取り込み(社会化)、それに適合するように自分の行動を選択し、相手の行動が取り込んだ役割期待に適合するかどうか吟味しています。

このように考えると、次のような結論を導き出せます。
→役割期待=規範
→役割に応じた行動=演技

地位に対する役割期待が明らかになり、役割のイメージが固定すると、役割期待は規範となって個人の行為を拘束することになります。個人は状況の変化、相手の行動に合わせて行動するだけで、後は取得した役割通りに行動するだけです。
 スジナシでも最初はとまどうが、いったん、「役」が決まってしまうと、後は話の流れに沿って演技するだけになります。


 人は生活の中でいつも同じ地位のまま行為することはありません。構造的地位は変化することが少ないですが、時と場所、状況によって構造的地位の内容は変化し、対人的地位が優位になることもあります。

→一日の中で地位は変化する。それに伴い役割も変わる。

 私たちはあらかじめ社会にストックされた地位に対する役割期待のデータベースを取得しています。そのデータベースから地位に適合した役割を選択して行動します。さらに今までに経験したことがなかった地位についたときには、社会化というプロセスをへて地位に対する役割期待のストックを社会から取得して、行動するようになります。



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2010社会学入門第7講 地位と役割(2) [社会学入門]

社会学入門2010 第7講 地位と役割(2)

 今回のテーマは引き続き「地位と役割」です。題材である『オレンジデイズ 第1話』のオープニングシーンで企業面接の帰り、地下鉄のホーム櫂がいます。このシーンには携帯電話で話をしながら頭を下げるサラリーマンと、合コンの話をする大学生がいます。そして櫂は、

「僕は今、学生と社会人の中間にいる」

というセリフ(ナレーション)を言います。就職活動中の4年生の人は同じような印象をもっておられるのではないでしょうか? このシーンは社会学的にはどのような意味をもっているのでしょう。

 続いてカフェでのシーンです。サトエリ演じる女性に「ゲー」だと告げる場面の後で、翔平と櫂が口げんかをします。その中で櫂の言葉を受けて啓太が次のような台詞を言います。

「試験落ち続けるとさ、新橋のガード下で酔っぱらってるサラリーマンも輝いて見えるよな。ああ、この人たちはちゃんとどっかの企業が採ってくれたんだ。どっかに所属してんだ、って。俺ら、だって大学卒業したらただのプーだぜ。どこどこの誰々って言えないんだぜ。」

このセリフは何を意味しているのでしょう。今回はこれらのシーンを社会学的に分析することから始めます。

 櫂が使った「学生」や「社会人」という言葉を、社会学では「地位」(status)と呼びます。辞書的には、「地位とは、集団や社会に占めるその人の立場」と定義できます。人間は誰もが「地位」があります。ドラマの中に登場した地位について考えてみましょう。娘や母親といった家族内の地位、大学の学生、バイト先のチーフ、プロカメラマンの助手、自分で稼いで生活している「社会人」などの地位が見られます。そもそも「名前」は人間が最初につく「地位」です。

 人間にとって「地位」とは何でしょう。物事の意味を考えるときには、仮にそれが「ない」場合を考えてみるとわかる場合があります。
 もし人間に地位がないとすると、どういうことが生じるのか。たとえば、「名前」がなければどういう問題が生じるでしょう。我々は記憶喪失によって名前を忘れてしまった人がいると、必ず名前をつけます。ネットで書き込む場合では本名は使わなくても、ハンドルネームを使います。「匿名」という「名前」を使う人もいますが。名前のないペットにも最初に名前をつけようとします。名前のないペットを見ると、「なんて、呼んだらいいの?」と言って、名前がついていないことに強い疑念を示します。
 それでは名前は「相手を呼ぶだけ」のためにあるのでしょう? それともそれ以外に何かようとがあるのでしょうか。

 「地位」が何であるのか、という疑問に対する答え、名前がどんな働きがあるのか、ということについての回答は、啓太の言葉に隠されています。啓太は「どこかに所属してんだ。どこそこの誰々」と言っています。この「所属」ということが「地位」と密接に関係しています。
 個人が何らかの地位に所属します。名前があるということは、生まれたときから所属先が「ある」ということになります。櫂は結城櫂という名前です。つまり櫂は「結城」という家に所属しているということを示します。
 どこかに所属しているということについてもう少し深く考えてみます。我々がどこかに所属しているということについて、啓太は次のように言っています。

「俺ら、だって大学卒業したら、ただのプーだぜ。どこどこの誰々って言えないんだぜ」

啓太は所属先がないということについて、大きな不安を感じています。これは所属感の喪失ということであり、アイデンティティに関わる問題です。

 アイデンティティとは何か。このことは第1回目の授業で簡単に説明しました。アイデンティティとは「個人の存在を証明するということ」です。そして個人の存在は、自分自身では証明できません。自分自身で自分のことを証明しても、それを誰もが信じるとは限らないからです。「社会的に存在が認められ」ないと、自分の存在を証明したことになりません。すなわち自分の存在は「客観的事実」によって証明される必要があります。
 地位は多くの人が認める立場で客観的です。ある地位に所属しているということが、その人の存在を証明することになります。

 オープニングの「学生と社会人の中間」というシーンは、「所属がはっきりしない中途半端な状態」を示しています。つまり主人公が「不安定」な状態にあるということを表現します。地位が変化するということは所属先が変わるということになり、心理的に「アイデンティティが揺らぎ」を感じているという状態です。学生から社会人になるというのは、まさに地位が変化するということであり、櫂は「アイデンティティの揺らぎ」を感じ、不安定になっています。
 櫂の冒頭のナレーション、「そして、僕は子どもでいられる最後の年に、彼女と出会ったんだ」、という言葉が示すように、このドラマ全体に登場人物たちの「揺らぎ」が描かれています。「学生と社会人の中間」というシーンはドラマ全体に通じるテーマを表現しているのです。
 さて実際、「フリーター」や「プー」と表現される人たちは、心理的にどこにも所属できない不安定な状態にあります。こういう状態を「アイデンティティ喪失」と呼びます。長期間にわたって「アイデンティティ喪失」の状態が継続すると、人間として生きていくことがつらくなります。極端に言えば、「存在していない」ということと同義だからです。そういう人たちには明確な「地位」を確保しなければなりません。


 地位といっても多種多様です。ここでは4種類の地位について説明します。<人との関係性で見た場合>「構造的地位」と「対人的地位」の2種類があります。<時間的に見た場合>地位は「一時的地位」と「恒常的地位」に分けられます。これらの種類の地位は、実際には明確に区別されるわけではなく、複数の地位に同時に所属したり、いくつかの地位を繰り返して変わったりします。

<構造的地位>
 構造的地位は、職業、年齢、性差、家族内の立場、社会階層など社会の多くの人が、「共通して」固定的なイメージとらえる「地位」のことです。いわゆる「社会的地位」(social status)にあたります。ドラマに登城した構造的地位には以下のような地位がありました。

学生、サラリーマン、兄妹、母と娘、大学教員、大学事務職員、店員など

<対人的地位>
 我々が友人たちと一緒にいるとき、最初から集団内の立場が決まっていることはありません。集団内の地位は、「他者との関係」(相互作用)、実際のやりとりの中で、自覚的あるいは自然に形成されます。これを「対人的地位」と呼びます。
 ちなみに他者との相互作用によって形成された「対人的地位」が、多くの人に承認されて固定的なイメージでとらえられるようになると「構造的地位」になります。

 ドラマの中で描かれた対人的地位には次のようなものがあります。

就職課掲示板前での櫂と沙絵の対人関係

 沙絵に対する櫂の話し方を見ると、櫂は自分が上級生、あるいは少なくても就職活動上の先輩だと考えていることがわかります。そして櫂は「先輩」のように対応しています。
→声の調子。別のシーンで会話するときのトーンとは全く異なります。

櫂、翔平、啓太の対人的地位
→女の子とのつき合い
→要領よく世間を渡っていく
→きまじめで人望がある

櫂と真帆の関係

 櫂と真帆の地位は、対人的地位→構造的地位の典型的な例です。ドラマの中で櫂は真帆に「あなたは僕の恋人なんだから」という言葉を何度か言います。これは「恋人」という構造的地位にあることを明言しています。それに対して真帆の方は、構造的地位に所属することに対して少し抵抗感があるようです。
 「恋人」というのは、他者も承認する関係なので、構造的地位です。しかし承認される前は恋人という固定的な関係ではありません。人によって状況は変わりますが、大部分の恋人関係は、恋人という構造的地位が形成される前に対人的地位によって構成される関係の段階があります。
 櫂と真帆の場合、先輩と後輩という構造的地位による関係が出発点になっています。しかしこの関係は櫂と真帆とのやりとりの中で変化しました。おそらく櫂が想像以上にしっかりしていたため、真帆は櫂を頼りになる存在として意識するようになったのでしょう。そして先輩が後輩に依存するというように対人的地位が形成されます。そしてその後、恋人という構造的地位へと変わろうとしています。
 ただし真帆は年上、先輩という構造的地位へのこだわりがあります。だから自分が櫂の恋人だと主張すること、それを周囲が認めることに抵抗を感じているのです。


<一時的地位>
 「一時的地位」は、その場の状況によって一時的に占める地位のことです。たとえば、電車やバスの乗客、デパートの客、通行人などがあげられます。
 ドラマでは・・・
面接試験の受験生、地下鉄の乗客、カフェの客、遊園地の客、タクシーの客が対人的地位の例になります。

 一般に「客」は一時的地位ですが、「常連客」や「顧客」は一時的に占める地位でなくなっており、次の「恒常的地位」になります。

<恒常的地位>
 「恒常的地位」は、長期間(場合によっては生涯にわたって)占める地位です。その大部分は「構造的地位」になります。
 ドラマでは・・・
「兄」、「妹」、「母」、「娘」、「ピアニスト」、「大学教員(大学の指導教官)」、「会社員」が恒常的地位にあたります。「学生」は「一時的地位」よりは長期にわたるため、「恒常的地位」と考えられます。


 さて、「地位」は人が所属する枠組み(器)=ハードウェアです。それでは器の中身、ソフトウェアは何でしょう。社会学では地位の中身を「役割」と呼んでいます。

 「役割」は、地位に期待され、望まれ、あらかじめ用意された行動様式を指します。安定した社会(戦争や紛争などが生じていない社会)では、地位ー役割が対応しています。

「構造的地位」-「構造的役割」
「対人的地位」-「対人的役割」
「恒常的地位」-「恒常的役割」
「一時的地位」-「一時的役割」

 日常生活の中で我々は相互に相手の地位に対する役割を期待しています。これを「役割期待」と呼びます。
 相互に期待している役割通りに行動することを「役割取得」と呼びます。我々は日常生活の中で役割期待に応えて役割を取得しようとします。役割期待や役割取得は何を生み出しているのでしょうか。
 相手が期待していると考える行動をとることによって、すなわち役割取得した行動を行うことによって、集団や社会、その場の秩序が維持されます。場の雰囲気が崩れないということは、場が安定しているということです。当然、我々の相互の関係も安定します。対人関係が良好な状態で維持されれば、相互に相手を信頼し、安心して生活することができます。もしも相手が期待しているとおりに行動しなければ、相手を「危険人物」だと考え、不安を感じます。

 それではどのようにして役割取得が行われるのでしょう。
 一般に役割取得は同じ地位の人や同じ集団に属する人をモデルにして、相手の行動を「模倣」することによって行われます。たとえば、ドラマの中で啓太は先輩に呼び出されていますが、会社の先輩の行動を模倣することで、会社員としての役割を取得できます。
 あるいは相手の行動に対応することを繰り返すことによって、役割を取得する場合もあります。櫂と沙絵は豊島園でデートします。この時、櫂は沙絵が「姫」であることを発見するのですが、その姫のような態度に対応することによって、櫂は姫を守る「ナイト」のような役割を取得していきます。


 人間にとって「模倣」は非常に重要な能力です。なぜなら人間は他の生物のように遺伝子レベルでの行動パターンをもたないからです。すでに説明したように一般的に生物は遺伝子に組み込まれたプログラムに従って行動します。生まれてすぐに立ち上がって母親の乳を飲んだり、親が運んでくるエサを食べるという行動は誰からも教わっていません。最初から行動プログラムがあるので、複雑な行動でも生得的に行うことができます。
 しかし人間はそうした能力を放棄してしまったために何らかの形で行動パターンを習得しなければ、何も行動することができません。人間は他者の行動を「模倣」することによって行動パターンを習得します。もし人間に模倣の能力がなければ人間になれません(人間らしい行動をとれません)。このように模倣によって行動パターンを習得するプロセスを、社会学では「社会化」と呼んでいます。
 この模倣の能力に加えて、人間には他の生物とは異なる能力を持っています。それは「他者の視点に立って物を考えることができる」という能力です。模倣の能力は一部のほ乳類にもみられますが、この「他者の視点でものを考える」という能力は人間に特異な能力です。この能力によって我々は「役割取得」が可能になります。また相手の気持ちを考えたり、共感したり、あるいは動機を推測することができるのです。
 我々は模倣によって行動パターンを習得し、人間としての基本的な行動を行うことができます。いわば人間になるのです。もしも模倣の能力や他者の視点でものを考えることができなければ、人間として社会生活を円滑におくることができません。しかし最近はこれらの能力が十分に発揮できない人が増えています。そのため人間関係でのトラブルが絶えなくなりました。これについてはまた別の機会に説明したいと思います。


 さてこの地位-役割は人間の行為にとってどのような機能(働き)を果たしているでしょうか。私たちは特定の場、状況で自分に与えられている「地位」にふさわしい「役割」とおりに行動しようとします。これは言い換えれば行動を拘束する規範になっていると言うことです。我々は取得した役割通りに行動することによって、安定した社会生活をおくることができます。我々は規範である役割を取得して、そのとおりに行動することで、円滑に生活しているのです。
 以前、行為のモデルを説明する中で、規範に従って行為するということは人間を「楽」にしていると紹介しました。まさに役割は人間の行為を自動化する仕組みであり、人間は役割という規範に従って行為する限り、何も考える必要はありません。

 たとえば、「学生」は学生という役割規範に従って行動している限り、社会的に非難されることはありません。しかし「社会人」になってから「学生」のように行動すれば、非難の対象になり、正常な人間としてつきあってもらえなくなるでしょう。


 さて役割を規範として受け入れ、期待される役割通りに行動することに何か問題はないのでしょうか。
 たとえば櫂と真帆の関係では、櫂は真帆に誰の前でも「恋人として振る舞う」ことを期待しています。櫂にしてみれば恋人という構造的地位に変化しているのだから、その構造的地位に期待される役割通りに行動するのは当然だと考えているのです。しかし真帆はそれを受け入れることができません。このように期待される役割を取得することに本人が何らかの抵抗を感じることは少なくありません。
 今回教材とした第1話ではあまり表現されていませんが、ドラマの中で聴覚障害者であるサエは、まわりの人間から聴覚障害者として対応されているシーンがあります。こうした対応にサエは傷つけられます。このように役割の中には本人の意志を無視した役割を強制されることがあるのです。子どもが生まれたとたんに「親として」の役割を期待されるということもそうした強制の一つになっています。家族の規模が大きかった頃には、子どもの誕生と同時に親は親として行動することが可能でした。なぜならそれまでに親としての行動を模倣していたからです。しかし現在のように単家族が一般化すると、我々は以前のように親としての行動をきちんと模倣することができなくなります。その結果、我々は模倣することなく親として行動することが期待されます。模倣の対象がないのですから、きちんと行動できないのは当たり前です。
 最後に地位と役割の対応が変化するということが問題になります。最初に説明したように社会が安定していると、地位と役割は固定的な関係になっています。しかし社会が安定せず、変化が大きくなると地位と役割の対応にも変化が生じます。前述の親としての行動もその一つですが、それだけではなく、多くの職種・職階においても地位と役割の関係が崩れていきます。世代間で役割のとらえ方が異なるのは、そうした社会変化を考慮できないからです。就職活動中の学生という地位に対する役割および期待は時代によって変化しています。しかしそのことに気づかず、昔と同じだと捉えている人は、現在就活中の学生に奇妙なプレッシャーをかけてしまいます。

 次回は地位と役割について別の側面から考えてみたいと思います。


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2010社会学入門第6講 地位と役割(1) [社会学入門]

社会学入門2010 第6講 地位と役割(1)


 今回のテーマは「地位と役割」です。毎年、このテーマの導入にふさわしいドラマを探すのですが・・・、ぴったりの作品はなかなか見つかりません。結局、同じ作品を使うことになりました。
 題材は北川悦吏子脚本の『オレンジデイズ 第1話』です。このドラマは、脚本家北川悦吏子と若手注目株の俳優との組み合わせで、TBSの日曜劇場で放映されました。関東地方で最高視聴率23%と記録し、平均視聴率は17.2%です。
 
放送期間:2004年4月11日~2004年6月20日(全11話)

キャスト
結城櫂  : 妻夫木聡
萩尾沙絵 : 柴咲コウ
相田翔平 : 成宮寛貴
小沢茜  : 白石美帆
矢嶋啓太 : 瑛太

スタッフ
プロデュース : 植田博樹
脚本     : 北川悦吏子
演出     : 生野慈朗、土井裕泰、今井夏木
音楽     : 佐藤直紀


 登場人物の行為が何を根拠に行われているのか、じっくりと観察してみてください。


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2010社会学入門第5講 行動と行為(4) [社会学入門]

社会学入門2010 第5講 行動と行為(4)

 前回までの授業で社会学が研究の対象とするのは意識的な行為であると紹介しました。意識的な行為には二つの行為があり、大きな枠組みが構成されています。その二つの行為をもう少し詳しくモデル化すると次のようになります。



 行為にはその出発点となる動機や欲求があります。この動機(欲求)をもとにして目的や価値、手段としての行動や目的として行動などが設定されます。そしてそれ以外に行為には資源や規範が関連します。

 産業に資源が必要なように人間の行為にも資源が必要です。資源には次のようなものがあります。

物資源
能力資源
社会的関係資源(社会資本)
文化資源(文化資本)
情報資源

<物資源>
 自然の天然資源や道具や機械などの人工物。貨幣や資本なども物資源に入れられます。鉄鉱石がなければ鉄は精製できません。同じように具体的に利用できる物がなければ設定できない目的があります。
 この天体観測という目的を達成するためには「天体望遠鏡」や星が見える「きれいな空」、観測にふさわしい場所への「移動手段」が必要です。これらの物資源が整備できなければ、「天体観測」という目的を達成することはできません。
 ドラマの中で犯人はレーザーを利用して殺人を行いました。レーザーを利用するためには、レーザーを発射するための工場の設備やレーザー屈折のための設備が必要です。

<能力資源>
 能力資源とは経験、知能、身体能力、読解、技能などの人間の能力全般を指します。空を飛びたいという欲求をもっていてもそのままでは身体能力がないために飛行することはできません。
 ドラマのなかでは、犯人のレーザーについての知識や照射の技術が能力資源に当たります。

<社会的関係資源(社会資本)>
 社会的関係資源には人間関係(コネ)、社会的地位、名声など自分以外の他者の力が含まれます。この資源は個人が所有するだけではなく、資本として他の人間に継承できる。草薙刑事の友人という人間関係は部下である内海に継承されていました。
 ドラマの中で湯川は山の中の大学の施設で大規模な実験を行いました。この実験は湯川ひとりではできません。助手や学生という湯川の社会的関係資源が利用されたのです。

<文化資源(文化資本)>
 家族や身近な人から伝達される文化的財、言語能力、振る舞い、知識など文化にかかわる資源を指します。
 内海は先輩刑事から「刑事としての振るまい」を継承しますが、この刑事としての振るまいが文化資本です。
 子どもは親と同じ職業を選択することが多いですが、これは文化資本の影響が少なくありません。

<情報資源>
 本・新聞・雑誌などの文字情報、テレビ・映画などの視覚情報、ラジオ・音楽などの聴覚情報、あるいは国旗・国家・勲章などの象徴などの資源です。
 犯人を逮捕するためには周辺の情報が必要です。だから刑事は事件現場近くの聞き込みを行って、情報資源を増やします。

 行為の実行には資源が必要です。そして動員できる資源によって設定できる目的が限定されます。ドラマの中で金森はレーザーによる殺害を行いました。レーザーを利用することで、自分の犯罪を隠蔽する可能性が高くなるから、さらに自分が利用できる殺害のための資源がレーザーだったからです。しかしレーザーを利用するための資源がなければ、殺人の証拠が残りやすい他の方法を選択するか、犯行をあきらめるしかなかったでしょう。このように資源によって行為の内容、目的は限定されています。


 行為に関係するのは資源だけではありません。資源の検討と同時に規範も検討しなければなりません。
 規範とは、「社会成員の行為を拘束する力」のことです。規範には法律のように成文化されたものもあれば、慣習や暗黙のルールなどのように特定の集団内で伝えられる成文化されない規範もあります。
 規範は行為を拘束する力なので、規範によって実行される行動の範囲が限定されることがあります。つまり資源に限りがないとしても、規範によって行為が限定されるということが生じます。
 たとえば金持ちになりたいという欲求があっても、「他人の物を盗んではいけない」という規範によって、他人からお金を盗むという行為はふつう行いません。


 さてもし規範がなければどうなるのでしょう。もしも規範がなければ、人間は資源が動員できる(使える)範囲で、個人の欲求のままに行為するようになる、可能性があります。それは犯罪の増加および社会の崩壊を意味します。一般に規範は私たちの行為を拘束するために、あまり良い印象がもたれていません。しかしながら規範によって私たちは安定した社会生活を可能にしています。また自分で考えることなく、規範に従ってパターン化された行為を行うことができます。

 ドラマの中で行われた、若者たちの騒ぐ行為や殺人は規範が破られた例です。規範がなくなると犯罪や迷惑行為が増加します。


 それではいよいよ第1回目のレポートを告知します。

課題作品
 『仮面ライダーブレイド 第1,2話』
  監督:石田秀範
 脚本:今井詔二



レポート課題
「白井虎太郎の行為の説明」

第2話冒頭で白井は広瀬の荷物を運び、階段を上りながら「なんかできることあるかなぁ」と話している。この行為について考えられることを論述しなさい。
必ず根拠をあげて論証すること


<レポート作成の注意>

この課題は感想文でも作文でもない。小論文として書きなさい。

<レポート提出期限>

5月27日授業終了時間まで

提出期限に遅れた場合には、提出されなかったものとする。いかなる理由も受け付けない。
なお、リポートが提出されなかった場合には、「F」(失格)とする。

例年、提出期限日に提出する学生が多くいる。これはあくまでも締め切りであって、この日に提出しなさい、という意味ではない。余裕を持って提出すること。人生には何が起こるかわからない。

レポートはMICCSか、電子メールで提出すること。提出先のメルアドは授業中に紹介している。メールで提出する場合には、<受領確認>メールを送信するので、受信できるように設定しておくこと。

なお、分量、体裁については制限はない。必要であれば図表を利用してもよい。

以上。


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2010社会学入門第4講 行動と行為(3) [社会学入門]

社会学入門2010 第4講 行動と行為(3) 行為の仕組み

 今回の課題を紹介します。

「ガリレオ」(第1話)
脚本:福田靖
演出:西谷弘

 この作品は2007年フジテレビ月9で放送されました。原作は東野圭吾の小説です。登場人物の何人かは原作にはないオリジナルではあるが、ストーリーは原作に忠実で、テレビドラマ作品としての効果をあげています。
 
 ドラマ第1話なので、湯川の科学的態度が紹介されています。次のような湯川の台詞があります。

「動機には関心がない」

動機は一般に感情に関係すると考えられます。科学、特に物理学のように観察できる対象ではありません。しかし・・・

前回説明したように行為には何らかの意図があると考えられます。意図に関係するということは、行為は動機と関連があるということです。そして社会学は行為の原動力になる「動機」に強い関心を寄せます。
 それでは社会学では「行為」をどのようにとらえているでしょう。

 ドイツの社会学者M.Weberは行為を次のように4つに分類しました。

【意識しない行為】

 ・感情的行為
 ・習慣的行為

【意識的な行為】

 ・目的合理的行為
 ・価値合理的行為

<感情的行為>

 感情的行為は感情にかられて無意識に行われる行為です。たとえば喜んで思わず抱き合ってしまう、悲しみで泣き崩れてしまう、など。
 ドラマのなかでは、唐沢寿明が演じる金森の行為に感情的行為が見られました。金森は殺害に失敗したとき、怒りの衝動によって足で床を踏みしめています。この床をけるという行為は金森が意図的に行っている行為ではありません。失敗した悔しさや怒りで思わずやってしまったのです。

<習慣的行為>

 習慣的行為は習慣化されて無意識に行われる行為です。たとえばつめをかむ、鼻くそをほじる、など。
 ドラマのなかでは、福山雅治演じる湯川の行為に見られます。湯川は時と場所に関わりなく思いついたら手当たり次第に式を書き込んで計算します。あるいは何かが思い浮かびそうで考え込むとき、手で顔を覆った仕草をします。彼はかっこうつけているわけでもなく、そういう行動が習慣化されて身についてしまったのです。こういう行動は意識していないので、指摘されるまで気がつきません。

<目的合理的行為>

 目的合理的行為は特定の目的のために手段として行われる行為です。目的合理的行為では最適の手段を選択しようとし、目的が達成されるかどうかの結果が重視されます。たとえばダイエットのためにジョギングするというのうな行動が目的合理的行為になります。
 ドラマのなかでは内海が嘘泣きする行為が目的合理的行為です。内海は湯川に事件解決のために尽力してほしいという目的をもっていました。この目的を達成する手段として「嘘泣き」という行為を選択したのです。

<価値合理的行為>

 価値合理的行為は(宗教や道徳など)固有の価値に基づく行為です。命令や責務を果たすという行為も価値合理的行為になります。価値合理的行為は目的合理的行為とは異なり、プロセスが重視されます。
 たとえば私たちは家の中で虫を見つけると殺してしまいます。しかしながら「不殺生」という価値を信じている人は虫を殺さないで外に逃がしてしまうでしょう。
 ドラマのなかで金森が夜中に大騒ぎする若者を殺します。これは「犯罪まがいの迷惑行為をゆるさない」という価値に基づく価値合理的行為です。しかしこれは金森の価値であって、一般的に私たちは「人を殺してはいけない」という価値に従って殺人を行いません。

 これがWeberの行為の4類型です。この行為論を社会学では受け入れ、発展させてきました。社会学での行為についてドラマを通して具体的に考えてみましょう。
 ドラマのなかでの内海と湯川の会話に注目してみました。

内海:「犯人の動機は?」
湯川:「それは君の仕事だ。(僕は犯人の動機には関心はない。)生じた現象の原因を明らかにするだけだ。」
湯川:「ただし罠は仕掛けておいた」

 このドラマの場合、動機は明らかです。それでも刑事である内海は「犯人の動機は?」と聞いてしまいます。湯川は物理学者として動機には関心がない、と答えます。物理学者としては謎、不可能と思われる現象の原因を明らかにすることに関心を持ちました。
 実際の警察の捜査でも、事件が生じたときのマスコミの反応でも「動機」が重視されます。社会学でも「動機」を重視します。だから社会学では意識的行為を中心に研究します。

 意識的行為を図式化すると次のようになります。

<目的合理的行為>
欲求(動機) → 目的 → 行動(手段)

目的合理的行為.jpg

<価値合理的行為>
欲求(動機) → 価値 → 行動(目的)

価値合理的行為.jpg

 内海は「科学者は感情は無関心だ」と指摘しました。それに対して湯川は「感情は論理的ではない。論理的でないものについて考えるのは時間の無駄だ」と答える。確かに感情を論理的に証明するのは難しい。特定の感情についての脳の反応については科学的に証明できます。しかし感情を科学の立場から論理的に証明するのは困難である。
 だから実験自体は犯人の感情を明らかにすることはありません。また実験しても犯人の動機を明確にすることもありません。
 ドラマで行われたように実験によって犯人の行動を論理的に追跡することができます。こうした追跡を「追体験」と呼びます。このように追体験すれば、犯人の感情を理解することができます。湯川は犯人の感情を推理していませんが、犯人の感情が浮かび上がりました。これにより犯人の殺意が明らかになります。

 社会学者は人々の行為を推理する探偵です。その方法の一つが「追体験」です。行為者の行為をなぞって動機や目的、あるいは感情を明らかにします。


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2010社会学入門第3講 行動と行為(2) [社会学入門]

社会学入門2010 第3講 行動と行為(2) 行為とは?

 とりあえず前回の講義の続きです。

 公共空間には次のようないくつかのルールがあります。

・見知らぬ人には声をかけない。
・じっと見つめない。
・他人に干渉しない。
・あたかもそこに存在しないかのように行動する。

こうしたルールをアメリカの社会学者E.ゴフマンは「儀礼的無関心」と呼びました。他人がそこにいる、ということを認識しながら、「無関心」を装う行動、いわば「演技」です。これはあくまでも他人に対する「配慮」を前提した行為であり、完全に相手に無関心であることを意味する行為ではありません。

 公共空間では「じっと観る」、「声をかける」などの相手に関心をもった行動は、「不適切」な行動であると考えられます。
 でも同時に相手に対してまったく無関心であることも「不適切な」行動であると考えられています。つまり他人が存在しているにもかかわらず、他人に対してまったく配慮しない、そして演技した「無関心」の行動ではなく、本当に他人の存在を無視した行動は不適切なのです。そのことは迷惑行為のランキングにも現れています。

→電車内での化粧(6位)
→ところかまわず座り込む(7位)
→周りを無視して騒ぐ(1位)
→周りを配慮しないでプレイヤーの音量をあげる(2位)

これらの行為は公共空間に自分たち以外の他人が存在していることを認識していない行為です。そうした行為は公共空間では迷惑行為だととらえられます。


 社会は人間同士の相互行為です。それではそもそも行為とは何か。今回は行為について考えてみたいと思います。

 今回の課題作品を紹介します。

「プロポーズ大作戦」(第9話)
脚本:金子茂樹
演出:初山恭洋

 今回の課題作品はストーリーの途中から始まるので、ドラマの設定を少し紹介しておきましょう。ドラマの設定は次のようになっています。

基本になる舞台は吉田礼と多田の結婚式と結婚披露宴。礼の結婚を前にして、岩瀬健は礼に対する自分の気持ちに気づく。

岩瀬健は吉田礼の気持を変えるために、妖精の力をかりて、写真を通して過去にタイムスリップする。

しかし、健は礼の気持ちを変えて結婚を取りやめさせることには成功しない。


 このドラマのテーマを社会学の立場からみると、次のようなポイントが浮かび上がってきます。

・人間の「行動」と「心(気持ち)」には何らかの関係がある。

 たとえばドラマのなかで健と礼はお互いに相手の気持ちを理解しようとしています。あるいは相手の気持ちを解釈しようと試みます。それではその気持ちは何から理解できるのでしょうか。行動しかありません。相手の行動を通して相手の気持ちを推理するのです。

 さてそれでは行動(behavior)とはいったい何か? 行動とは「人間ならびに人間以外の動物の活動全般を示す」と定義できます。この定義から行動とは基本的に観察できるものであり、人間も動物も同じです。
 このような行動のなかに他の動物にはない人間独自の行動があります。これを社会学では「行為」(act)と呼びます。

 行為を社会学的に定義すると、
「象徴(symbol)によって社会的に意味づけられた行動=社会的に意図づけられた行動」
となります。

 まずはここで用いられた象徴の意味について考えてみましょう。象徴とは、「具体的な事物によって抽象的な概念が表現されること」と定義できます。
 たとえば「結婚指輪」。物理的には人間の指にはまる大きさの金属製(?)のわっかです。物理的にはそれ以外の意味はありません。しかし人間はこのわっかに抽象的な意味を付与します。ここでは「相手に対する永遠の愛の約束」という抽象的な意味が付与されます。つまり結婚指輪は「永遠の愛」を象徴します。
 赤色の下着も象徴に用いられます。象徴するのは、勝負に勝ちたいという気持ちです。もちろん下着自体にはこうした意味はありません。

 象徴は具体的な事物が指し示す「意味」が社会的に共有されないと、つまり社会にいる人がその意味を知らないと、象徴として意味がありません。たとえば赤色が象徴する「危険」という意味を知らなければ、「赤信号」はたんなる赤色のイルミネーションです。
 事物が指し示す意味を共有しないければならない、という意味では「言葉」は典型的な象徴です。「い」+「ぬ」という概念は具体的な対象とセットになって初めて意味がある。「いぬ」という言葉によって示される対象が共有されなければ、相手とのコミュニケーションが成立しません。

 行為が象徴だというのはどのようなことを意味しているのでしょう。たとえば「女性が長い髪を切ってショートヘアにした」とします。これは観察できる事実、つまり「行動」です。そして日本人の多くはこの「行動」が「失恋」や「出発への決意」の象徴であると理解しています。つまり観察できる行動とは結びつかない抽象的な意味と関連づけられます。これが行為は象徴であるということの意味です。

 行為が「象徴によって社会的に意味づけられた行動」であれば、行為は行動の一部ではあるが、象徴によって意味づけられる部分は行為の特徴であるといえます。その前提に立てば、行動としては「何もしない」ということが「行為」としては成立するということがある、ということになります。

 ドラマのなかで健は自分の気持ちを礼に告白することにこだわっています。この「告白」というのは何を象徴しているのでしょうか。

 告白というのは、「おまえが好きだ!!」ということ。健は礼が結婚するまで「告白」していません。礼も健に対して「告白」していませんでした。
 告白は「相手に好きだという自分の気持ちを伝えること」です。これは表面的な意味で観察できますから「行動」です。ということは告白には「相手に自分の気持ちを伝える」という意味とは異なる別の意味があるということになります。

 この問題については、前回の課題作品である『電車男』が鍵になります。『電車男』のストーリーのなかでは、電車男とエルメスは相互に好きだという気持ちに気づいています。しかし電車男は「告白」にこだわり、なんとしても告白しようとしました。このことはドラマよりも映画の方がわかりやすく表現されています。
 ここでは「告白」は男女がつきあう(あるいは恋人関係になる)ための「通過儀礼」を象徴しています。つまりいくら相互に好きだということに気づいていたとしても、告白という儀礼を通過しないと正式につきあえません。
 ただしこれは告白についての一般的な行為の意味で、このドラマでは別の意味があるようです。

 一般に「告白=つきあいへの通過儀礼」となるのは、相互に「相手を好き」という気持ちがわかっている場合のことです。電車男の告白はまさに正式なつきあいへの通過儀礼を象徴していました。しかし相互に相手を好き、という気持ちがわかっているのではなく、一方的な場合はどうでしょう。この場合は「相手の気持ちを確かめたい」ということを象徴します。

 『プロポーズ大作戦』第9話では健は多田のプロポーズを受けようとする礼に対して初めて「告白」します。しかしそれに対する答えは・・・「なにもわかってないよ」です。ここで少し考えてみましょう。

 ケンゾーの何が悪いのでしょう。

タイミング?
言い方?
伝えている言葉の内容?

脚本家はこの告白が「ケンゾーの本音ではない」ということを想定しています。同時に「礼がケンゾーのことを何も理解していない」ということもほのめかします。
 個人的にはケンゾーと礼との認識の違いが原因というように感じられます。つまり告白という象徴をきちんと共有していないということです。

 結論を言えば・・・人間の行為を理解するのは難しいということです。目に見えない人の心情は、推理あるいは推測することしかできないからです。社会学では行動を行為ととらえてその意味を「理解する」ことが重要だと考えています。そして人の行為を理解するためのいろいな理論や方法論を整備してきました。授業のなかでそのことを徐々に説明していきたいと思います。


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