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2009社会学入門第10講 演技 [社会学入門]

社会学入門2009 第10講 演技 地位と役割の進歩系? ドラマトゥルギー
 
今回の教材
「ハタチの恋人」(第3話)
脚本:吉田紀子
演出:清弘誠、竹園元、山室大輔
2007年10月14日~12月16日
TBS系日曜9時枠(東芝日曜劇場)

 このドラマは日曜劇場としては平均視聴率歴代最低を記録しました。しかし現在はテレビ番組は録画して視聴するのが一般的で、視聴率自体が問題視されだした頃のドラマでもあります。視聴率が低迷しているからといってあまりこのドラマを視聴していないということではありません。
 脚本はなかなか面白いですし、明石家さんまと市村正親のやりとりは絶妙です。ただ第1話はあまりテンポも良くなく、演出的にも優れているとはいえませんでした。

 今回のテーマに関連した部分は次のシーンです。

 ホテルの清掃員として働く沢田ユリは圭祐のことを「森山リュウ」だと思い込んでいます。それは

←森山リュウが宿泊する部屋でくつろいでいる男性だから
←森山リュウが誰だかわからないから

という2つの理由が考えられます。
 そして圭祐は自分がユリから「森山リュウ」だと思われていると知りませんでした。


圭祐の家族は、いつもと言動が違い、トイレの中で独り言をいう圭祐を見て、圭祐が疲れすぎておかしくなったと考えています。

*会社の屋上でも独り言を言っている。


 ユリが「くたびれたサラリーマン」にしか見えない圭祐を森山リュウだと信じ続けるのはなぜか。前述したようにユリは最初に圭祐にあったときから圭祐のことを「森山リュウ」だと信じています。圭祐が森山リュウではない、ということが暴露された後のユリのセリフには「くたびれたサラリーマンだと思った」という言葉がありますが、ともかく焦っていたユリには圭祐が小説家に見えました。そしてその最初に植え付けられた印象が維持されているために、ユリは圭祐のことを森山リュウだと信じ続けます。
 一方圭祐は「森山リュウ」のふりをし続けています。とはいえ圭祐は特に変わった行動をしているわけではありません。


 圭祐は日常生活の中で別人として演技することになりました。さて前回までの議論で、役割は相手の役割期待を取得することによって始められると説明しました。そしてその役割を維持するのは行為者の意志(役割は取得するだけでなく、自分で創出することがある)です。この点について社会学には別の側面から分析した理論があります。ドラマトゥルギーという社会学の理論がそれにあたります。ドラマトゥルギーでは、行為者が役割を行うことを「演技」と表現します。ドラマトゥルギーという理論は、日常生活を演劇のメタファーとして捉えます。つまり日常生活全体を「舞台」と考え、私たちはそこに登場する演技者になります。


 日常生活の中で演技を続ける理由は、

地位を維持するため
その場の雰囲気を維持するため
人間関係を維持するため

です。あとの2つは地位と役割で説明した役割期待通りに行動する理由と同じです。演技という視点に立って異なる点は、役割は地位に付随するソフトウェアになっているということで、つまりハードウェアに適合するソフトウェア通りに行動しているということです。演技の場合、役割を演じ続けることで地位を維持することになる、という点が少し異なります。


 ドラマトゥルギーは日常生活を演劇のメタファーとして捉えると紹介しました。それではもとの演劇では、観客は舞台の上で演技している俳優たちに何を期待しているのでしょうか。ここではドラマで考えてみました。

ドラマの視聴者が出演者に期待すること。
→演技の首尾一貫性
→演技の継続

視聴者は俳優に、ドラマに登場する人物のイメージ通りの演技が首尾一貫することを期待します。別のドラマで演じていた登場人物の行動が混じるような演技は期待していないということです。
 そしていったん始められた演技が最後まで続けられることを期待します。
 もし視聴者が期待しているとおりの演技ができず、失敗してしまうとドラマが台無しになってしまいます。もちろんテレビドラマや映画の場合、演技に失敗しても何度も撮り直すことができます。しかし舞台で演じられる演劇では撮り直しはできません。そういう意味では演劇の方が日常生活に近いと言えます。日常生活における演技も失敗するとその場が崩れてしまい、演技を続ける理由としてあげた項目が、地位を失ったり、人間関係が維持できなくなったりします。


 地位と役割という考え方では地位が変われば役割がかわる、と説明しました。このことをドラマトゥルギーで考えるとどのようになるでしょう。ドラマトゥルギーでは「状況の定義」がポイントになります。

状況の定義:
「人が自分の置かれた状況を認識し、その意味を解釈すること」

私たちは定義した状況に合わせて役割を変更します。その舞台にいる人はこの状況の定義を一致させて、相互に演技しています。状況が変われば役割が変わります。


 このようにドラマトゥルギーでは状況を定義し、登場人物全員で相互に演技する場を「舞台」と考えています。それでは演技しない「場」=舞台裏、は、演劇のように存在するのでしょうか。たとえば自宅、家族といる自分というのは何も演技していないのでしょうか。


 私たちは日常生活の中で演技をし続けているのですが、それにはリスクが伴っています。一つは演技の継続性が崩れる可能性があるということです。もう一つは、舞台裏を見られる、あるいは別の役割演技を見られることによって、首尾一貫性が崩れる可能性があります。
 こうしたリスクがあるにもかかわらず私たちは演技し続けています。



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